少数民族と辛亥革命(卒論の要旨+ちょこっと)

 

そもそもはモンゴル近代史だった。

 

清朝はモンゴルを、漢人に対する満人の同盟者として特別に遇していた。しかし清朝自体が傾いてからは、そうも言っていられなくなる。20世紀に入ると清朝は、いわゆる新政として対蒙新政策を打ち出す。これはいわばモンゴルの植民地化を狙ったもので、清朝自身も列強の植民地化していたのだから、モンゴルは植民地の植民地にされることとなったわけだ。

当然、モンゴル側は反発する。もともと牧民たちは清朝下で反清闘争を続けてきたが、聖俗の貴族層までが反清朝に回ることとなる。

そしてロシアの援助を請いにはるばるペテルブルグまで密使を送るなどしているうちに、1911年10月10日辛亥革命が勃発。各省が相継いで清朝からの独立を宣する。その動きを受けて、12月1日、モンゴルは独立を宣言する。

モンゴルとしてみれば、漢人が満人から独立するのと同じようにモンゴルも満清から独立するというだけのことで、なんでもない、ごく真っ当なことであった。

しかし中国はそれを許そうとしなかった。「五族共和」を掲げ、モンゴルをつなぎとめようとした。

 

わたしの疑問はここに発する。どう見てもモンゴル側の言い分は理にかなっているように思える。モンゴル独立は大国主義者の言うようなロシアの陰謀などではなく、モンゴル自身の事情と発意とによるものだ。これに反対して中国につなぎとめる、どんな理を中国はもっているのか。

1912年1月1日の臨時大総統孫文の中華民国建国宣言の中に、「五族共和」の語がある。しかし、わたしは孫中山全集を全部めくってみたのだが、この宣言以前には「五族共和」の語を見つけることはできなかった。既にモンゴル独立から1カ月である。モンゴルの動きを見て慌てて打ち出したとしか思えない。

 

そこで、清末の人たちがこの問題についてどう考えていたのか、知りたいと思った。彼らは敵としての満洲以外、一般の満洲人民衆をも含めた諸少数民族について、どう認識していたのか。満清憎しで喧伝された華夷思想は、漢人以外の人々にとって気分のよいものではあるまい。そういう人たちをも含めた国家構想を、彼らはもっていたのだろうか。

 

ということで、未熟ながら色々かぎまわったのだが、どうやらそんなものはなさそうだ。ほとんどの人は清朝としての満洲人しか頭にないようで、章太炎は清朝を倒しても満人を皆殺しするわけではないと言い、張謇や劉揆一なども五族について触れてはいるが、畢竟それは漢族との同化を前提とするか、せいぜいが後に日本が掲げる「五族協和」のようなもので、漢族中心主義と言わざるを得ないものであった。『民報』に連帯を訴えかけるモンゴル人の投稿が載ったことがあるが、これに附された編集者のコメントは、ぼやけたものだった。

 

ただ、例外はある。

黄尊三が日記の中で少数民族に触れているのは、彼が少数民族の多い湘西の出身であるからかもしれない。

また、劉師培や何震がアナキズムの立場から漢族中心主義への反対を訴えている。

そして楊毓麟。彼の思想は民族自決主義ともいえるものだ。彼がどうしてこの思想を得たのか不思議なのだが、わたしは彼のこの思想を非常に高く評価している。

 

 

 

★変法期と、革命派との違いはどこにあるか。もちろん、清朝を温存してその下での改革を目指すか、清朝自体を倒して新しい政体を建てるかなのだが、その違いはどのあたりから出てくるのか。

 変法運動は「英邁な」光緒帝に望みをかけている(ことになっている)から、当然倒清は言わない(ことになっている)

拒俄運動は、満人留学生も参加していたように、反清ではなく反帝国主義運動だった。

それがどこで倒清に変わるのか。

 

問題を整理してみよう。

清朝を倒すべき理由は、

@異民族王朝だから=民族主義

A専制王朝だから=民権主義

だいたいこの二つだろう。

反帝国主義を重んじる陳天華は清朝を「洋人の朝廷」と的確に表現したが、清朝がそうなった原因をどこに求めるかというと、これも結局は同じ@かAかになる。

Aならよいが、@では極端な話、漢民族王朝ならよいことになる。実際、反清復明を旨とする会党と協力している。もっとも、さすがに袁世凱の帝政は失敗し、中国にはその後、天子は存在していないが。

といって、@よりAかというと、残念ながらそうとも言えないようだ。というより、革命派の主張を見ると、排満復仇主義や華夷思想の強いものが多い。

例えば鄒容はルソーを丸呑み込みして高い理解のほどを見せているが、彼には強い華夷思想も同居している。そのため彼は四万万漢人と五百万満人との不公平を訴えるが、それでは多数決の名の下に多数民族が少数民族を抑えることになり、つまりは漢民族中心主義でしかない。何震・劉師培の言うごとく、強権を以って他の強権に取って代わるに過ぎないのである。

もちろんAの主張も強い。反専制を訴え、民主主義を高らかに謳う者は多い。けれども、単純な排満復仇主義のほうが情に訴えやすく、はるかに解りやすかったようだ。

 

では、排満復仇主義を否定する国内の立憲派はどうか。もちろん立憲派も一つではない。日独式の君権の強い立憲制を目指す政権内部の人たちもいれば、君権を骨抜きの名ばかりのものにする英国式を構想する在野勢力もある。

いずれにせよ清朝は温存されるが、その理由も様々だ。

天子様のいない天下は考えられないという論。本心はともかく、おおっぴらに発言するには、そうでなくてはなるまい。

ほかには、革命の混乱に乗じて列強に瓜分されてしまうという論、民智の開けぬ現状では民主主義は無理だという、民権期の日本でもいわれた時期尚早論など。

 

要するに革命派も立憲派もいろいろある。双方とも色々ごちゃごちゃある中でこの二派を分けるのは、清朝を温存するか否かだけだ。

としたら、その違いはどこにあるのか。

 そこのところで、華夷思想が関わっていはしないか。

 それがわたしの疑問の勘どころだ。

 革命派の主張がAを主眼としているのならよいのだけれど、どうも@が気になってならないから。

 

 

 

2005年7月1日

 

 

ゆり子

 

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