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補足:「遯初」について

 

宋教仁小伝  

 

 

宋教仁は湖南省桃源県の人。字は得尊、号は遯初(とんしょ)、漁父(ぎょほ)で、桃源漁父と称する。生家は陶淵明の桃花源にほど近い(「桃花源」という観光地があるようだ。熱海の「お宮の松」の類か?)が、この号には別にいわれがあって、淵明とは無関係らしい。

地主の次男に生まれ、父を早く亡くし、武人の家の出である母に育てられる。幼時より定められた許婚と十六歳で結婚し、一子をもうける。

十八歳で生員(いわゆる秀才。科挙の受験資格がある)となる。このときの答案を学政(省の教育長官)の江標は激賞したが、過激さをはばかった別の試験官が、順位を下げて合格させたという。この江標は、楊毓麟を見いだして抜貢にした変法派の人物である。

(?? おもしろい逸話なので紹介したが疑問がある。湖南の学政は1897年に江標から同じく変法派の徐仁鋳に変わったはずだ。その徐も98年9月の「戊戌の政変」で解任され、江標もこのとき失脚している。宋教仁が院試に合格して生員になったのは1900年だから、年が合わない。何かの間違いか? ★★★追記:江標は1899年没。従ってこれは全くの誤伝)

 

その後、母の命で武昌へ遊学。1903年、黄興の演説を武昌で聞き、陳天華、劉揆一らとも接触。華興会結成に際して劉揆一とともに副会長となる。

 

1904年の長沙起義失敗後、日本へ亡命し早稲田大学に学ぶ。華興会の面々が意気沮喪するなかで一人気を吐き、雑誌『二十世紀之支那』を立ち上げる。これは一号出したのみで発禁になるが、同盟会機関誌『民報』に引き継がれた。

亡命する1904年から1907年までの詳細な日記は、「我之歴史」として公刊されている。

 

その後帰国し、上海で于右任の新聞『民立報』に主筆として招かれ論陣を張る。また、同盟会中部総会を結成し、工作にあたる。

1911年10月10日の武昌起義勃発後は、列強からの干渉を防ぐため革命後の混乱の早期終結に努め、袁世凱と取引して清帝の退位と引き替えに袁を大総統にする。その一方で、議院内閣制によって議会の力を強くし、大総統といえども議会の承認なしには何もできないようにすることで、袁を封じ込めようというのが、彼の考えだった。

そして12年12月、同盟会を国民党に改組し、実質上の党首となって臨んだ選挙で、圧倒的な勝利を収める。彼の構想はまさに実現しようとしていた。

 

同じ12月、彼は桃源県に帰省する。故郷に足を踏み入れたのは亡命以来8年ぶりのことで、轎(かご)に乗って、まるで帝政時代の大官のお成りといった風情の、思いっきり仰々しいお国入りだった。

そんな形をとったのは、家族への配慮によるものと思われる。亡命革命家といえば聞こえはいいが、体制側から見れば謀反人の国外逃亡に過ぎない。残された家族の苦難は計り知れない。

宋教仁の二つ上の兄・教信は弟の活動に理解を示していたが、教仁の逃亡のとばっちりを受けて下獄した。三年後に出獄してからはすっかりぐれてしまい、アヘンと博打とに身を持ち崩して09年に早世している。親戚の中には、教仁が早く捕まって死刑になるようにと神仏に祈る者もあったらしい。また、教仁は長沙起義の際の運動資金として多額の借金もこしらえており、その処理も大変だった。

こういった全ての苦難を知っていたから、彼は妻子や老母をはじめとする一族の人々のために、華々しい姿を郷里の人々に見せる必要があったのだろう。

 

さて、宋教仁のとった袁世凱対策は有効なものだったため、袁は宋に多額の小切手を贈った。足りなければもっと出すとまで言ったという。しかし宋は婉曲にこれを突き返した。そのため袁は、最後の手段をとることになる。

 

1913年3月20日深夜。いよいよ自分を中心として組閣に臨もうとする宋教仁は、北京へ赴こうとした上海駅で、袁の放った刺客によって狙撃される。直ちに病院に運ばれるが、22日未明に死亡。三十一歳の誕生日の二週間前だった。

 

これによって中国の議院内閣制は葬り去られることとなる。

 

 

 

宋教仁は頭のよい人で、種々の逸話をもっている。学ぶことにかけて旺盛な精力と能力とをもっていたことは、その日記からも十分うかがわれる。

留学時代、友人たちに「皆は清朝を倒すことばかり考えているが、倒した後にどういう国家を建てるかが重要だ」と言って、一同きょとんとする中、楊毓麟だけが彼をほめたという。

楊毓麟は清朝の憲政視察大臣一行の随員として日本を訪れたのだが、彼は政府に提出すべき各国の政治制度についての文献の翻訳を、宋教仁に下請けに出している。これは楊がこの若い友人のことを、革命後の国家構想について謀るに重要な人材だと、考えていたからかもしれない。

 

宋教仁は日本留学中、「英雄」孫文への失望などを経て、若き日の英雄主義を脱却し、政治家へと成長していったようだ。

彼は孫文と対立したためもあって、「革命家というより政治家、陰謀家」というイメージが植えつけられてしまっている。孫文派には、「彼が日本で学んだのは権謀術数だけだ」などと謗る人もいる。

わたしもはじめは彼を「冷徹な政治家」だと思っていたが、今はそうは思わない。

酒が入れば剣を振って舞うというのは彼に限ったことではないかもしれぬが、若いころは『水滸伝』の宋江の字をとって宋公明と名乗ってもいた。

また、子どもの頃、近所の子どもたちを指揮して戦争ごっこをしていたとか、武術を習っていて日清戦争時には稽古にいっそう励んだともいう。(なお、彼が習った梅花拳は十大名拳の一つとされ、武術マニアの夫によれば、北派拳術らしい大きく華麗な突き蹴りの中に、凶猛な体当たりが配合された、実戦的な拳だとのことで、長身痩躯の宋教仁ならさぞ似合ったことだろうとのこと)

1905年の陳天華の死に際しては、遺体を大森警察まで迎えに行き、その後、彼のために『民報』に情のこもった文章を書いている。

彼もまた、陳天華と同じく湘人らしい熱い魂の持ち主だったようだ。

本人の自己認識もそうだったようで、上海駅で撃たれる当日、袁世凱の刺客に警戒せよとの友人たちの忠告を、「革命家が暗殺するならともかく、革命家を暗殺するなんてあるか」と笑い飛ばしていたという。

彼はさいごまで革命家だったのだ。

 

 

以上、主に

松本英紀『宋教仁の研究』(晃洋書房、2001年)

松本英紀「宋教仁論」(『立命館文学』1997、1999年)

を参考にした。

 

 

 

 

 

2003年8月3日

 

 

補足:「遯初」について

 

易に詳しい人に「遯初」という語について聞いた。

 

遯初というのは字(あざな)という説と号という説とあるが、この際どちらでもよい。用字も、「敦初」と書いたり「鈍初」に作ったりし、「敦初」が早い形のような気にも思われるが、友人や周囲の人たちは「遯初」とするのが最も普通だったようだ。

 

 

さて、「遯初」について、以下、岩波文庫版(高田真治・後藤基巳訳)から

 

 

遯(天山遯)

 「遯は退避、のがれ退くの意、二陰ようやく長じ、陽が退避に向かわんとする卦象に取る」

 

その初爻

「遯尾なり。獅オ(あやうし)。往くところあるに用うるなかれ」

訳は「遯れる時の後尾、逃げおくれて尻尾(微賎)の位地で身に危険が多くて進んで事を行なうにはよろしくないから、韜晦して時期の到来を待つべきである」

 

 

  

つまり、最も危険な殿(しんがり)であり、逃げ遅れて危ない。火中の栗を拾う。そんな感じだ。

 当時の教養人なら当然、彼がこう名乗った瞬間に、彼の覚悟を悟ったわけだ。彼が何歳からこう名乗っているのかが分かれば、彼がいつから国事に殉ずるという志をもったかが分かることになる。

 

 そして実際、彼はそういう死に方をしている。

 

 

(2012年7月1日)

 

 

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