楊篤生踏海をめぐって      

 

 

人はすべて、死ぬまで生きる権利がある。根拠はただ、「生まれた」という一事でよい。そして生き物である以上、人は誰でも死ぬまで生きたいはずで、自ら死を選ぶというのは不自然なことだ。だから、本人が意識しているかいないかにかかわらず、すべての自殺は他殺である。深いところで魂を殺されている場合は、なかなか気づけないだろうけれども。

 

楊篤生がなぜ死を選んだのか、わたしは知らない。遺書を一部しか見ていないし、たとえ全部読むことができても、本当のところはわからないだろう。わたしにできるのは、この稀有な魂を悼むことだけだ。

だからここではただ、彼の踏海をめぐるこまごましたことを、主に同志たちの当時の文章から綴ってみる。

 

 

ドイツ留学中の蔡元培が1911年8月19日に落手した、ロンドンの呉稚暉よりの17日付書簡。

楊篤生踏海の詳細と、その後の処理について。

8月10日、華僑公所で追悼会。参会者四、五百人。呉が故人の生平(生涯)について報告。この夜、駐英留学生監督の銭文選も来る。

8月11日午前、葬儀。リヴァプール市の東北隅の公共墓地に葬る。参列者二百人。費用は十八ポンド。高碑を建て、題して「中国踏海烈士楊先生守仁墓」、この費用が四十ポンド。これらの費用は銭氏が出した。

ここに葬ったのは、章行厳らと相談して皆で納得して決めたことで、理由は以下のとおり。

一、東の三島(日本)に朱舜水あり、西の三島(英国)に楊守仁あり。ともに永遠に芳名を遺す。

二、遺骨をかえすと、陳天華先生のときの騒ぎや(岳麓山事件)、秋瑾女士の墓が暴かれたような、おもしろくないことも起こりうる。

三、遺骨がなければ、老母を騙しとおすこともできるかもしれない。いたずらに悲しませることはない(篤生は老母には死を秘すようにと遺言した)。

四、遠すぎる。

 

 

 留学生監督が費用を出しているのがおもしろい。表向きはあくまで前欧州留学生監督秘書の楊守仁だったということか。ということは、留学費用も公費だった可能性がある。

 

楊昌済は後年の日記に、「篤生をリヴァプールで葬ることに私も賛成した」と記している。そして、「性恂(コ鄰)もまた賛成した」として、その手紙を引いている。故国が光復した暁には、烈士の英霊は必ず怒潮となって東返すると。

昌済が賛成した理由は記されていないが、コ鄰の理由は呉たちが述べるところとひと味違う。コ鄰としては、やはり帰ってきてほしかったのだろう。

 

それにしても朱舜水と同列にするとはすごいが、おそらくそれが彼らの気持ちなのだ。篤生の死は陳星台や姚剣生(洪業)とは違い個人的なもののはずだが、彼らはそうは受け取らず、自身に近い問題として感じ取ったのだろう。だからこそ篤生は烈士と呼ばれ、民国成立後には他の烈士たちとともに顕彰されているのだ。(その後も少なくとも1982年の時点では、現地の華僑たちが墓所を管理し祀りを続けていた。今も続いているのだろうか)

 

なお、蔡元培は呉稚暉から手紙を受け取った翌日の8月20日、伝記「楊篤生先生踏海記」を書いている。このすばやさは、篤生の死が蔡にとっても大きな衝撃であったことを示しているといえよう(ここには呉から送られたらしい篤生の遺書も引用してあるが、つらすぎるので今は措いておく)。

 

 

 

曹亜伯は『武昌革命真史』に、「葬儀にはずいぶん遠方からも集まったが、章士サ呉弱男夫妻だけは来なかった」と書いている。しかし呉の書簡によれば、「行厳と相談した」となっている。ということは、章士サは葬儀に参列したのだ。昌済もいるのに、わざわざアバディーンの章と相談するわけがない。章もリヴァプールに来ていたと考えるのが自然だろう。ただ、呉弱男は本当に来なかったのかもしれない。幼児を二人も抱えているし、後述の理由から彼女が篤生に反感をもっていても不思議ではないから。

民国十六年(1927年)に出された『武昌革命真史』と、事件直後の呉の書簡と、どちらが信頼できるかは言うまでもない。27年なら章士サは生臭い政治のまっただ中にあり、批判も相当に多かったから、色々な意図が交じる可能性もある。一方、呉稚暉が蔡元培宛の私信で、事実を曲げてまで章士サをかばう理由はどこにもない。曹亜伯は当時英国留学中で葬儀にも参列していたので、つい鵜呑みにしていたが、いけないようだ。

 

もっとも、踏海直前に楊篤生が章士サと仲違いしていたのは事実らしい。楊は章に対し些細なことで激昂して、常軌を逸した態度に出たため、呉弱男は怯えて逃げ出し、平生人前で泣くことなどない章も、このときばかりはあまりに情けなくて涙を禁じ得なかったという。「些細なこと」だったかどうかは篤生の言い分も聞かなければ判断できないが、篤生が騒ぎ章が涙したということだけは、楊昌済が証人に立てられているから事実なのだろう。

齟齬が生じた原因は分からない。金銭問題という説もある。篤生は遺書で章を謗っており、何かあったのは間違いない。それが何で、どの程度のものだったのか。

篤生は元もと円満な性格とは言い難いとはいえ、常軌を逸した行為というのは、やはり病気のせいであったと考えるべきだろう。彼の頭痛は渡英以前から始まっていて、上海時代に既に健康体とはいえなくなっていた。彼の健康状態については昌済のほかに于右任も記しており、渡英の際に兄のコ鄰に薬を送ってもらったこともわかっている。あるいは留日時代の爆弾暴発事故で隻眼を痛めている(失明ともいう)こととも関係があるかもしれない。

頭痛と不眠とが耐え難いほどになっていて苛々していたところに、「些細なこと」かどうか、ともかく何か気に障ることかあって、ヒステリーでも起こしたのだろう。たとえ文弱の身でも大人の男の人が本気で怒れば怖いから、気の強い弱男であっても怯えるのは無理はない。

 

もちろん篤生の苦悩は頭痛だけではない。

 つらかっただろうと思う。科学が好きで、先進の知識を存分に吸収するつもりで渡英したのに、入口の英語で難儀し、博覧会へ行けば彼我の科学力の差を見せつけられる。昌済は伝記に篤生のもらした嘆きを書きとめている。「少年の精力を国学の一隅に徒費したことが悔やまれる。中年になってから学ぶのは十倍の苦労を要する」と。

徒費という! 彼ほどの学を積んだ人が! 長沙での学生時代、俊秀として楊度らとともに賞賛され、江標に見出されて抜貢から挙人へという、そんな日々も今から思えば無価値なことなのか。(なのに一子・克念には新しい学問ばかりでなく経学もしっかり修めろと指示している。矛盾している? ろくに一緒に暮らしたこともない我が子に、せめて自分と同じ教養を積ませたいという心か?)

実際の話、昌済や章が東京で英語その他の勉強をしていたとき、篤生は爆弾かかえてとびまわったり、上海で論陣を張っていたりしていた。そんなことも悔やまれるのか? 

もともと粘り強い努力家だ。黄興も孫文に提出した人物リストでそう評している。于右任も、上海の新聞社で病身に鞭打つ彼の姿を記している。けれども彼の身体は、努力することを許さなくなっていた。どんなにつらかったか。

だからといって、英語ができないから死んだというわけではないだろうけれど。

 

ついでながら、楊昌済が書いた「踏海烈士楊君守仁事略」について少々。

白吉庵氏は『章士サ伝』で、民国初年の政争の中で楊篤生の遺書が章士サ攻撃に使われ、困った章が楊昌済に証言を頼み、その結果書かれたのがこの文章だとしている。「篤生が頭痛に耐えかねていた」と記すことで、彼がとてもまともな精神状態にはなく、そういう人の書いた文章は信ずるに足りないと暗に証しているのだと。

しかし、この政争や章からの昌済への依頼の手紙は1912年夏のことである。一方「踏海烈士楊君守仁事略」には、篤生踏海を「今年閏六月」と記している。陰暦の辛亥の歳は陽暦1912年2月までであるから、時期的に合わない。さらに、この文章が発表されたのは『甲寅雑誌』第一巻第四号、1914年11月である。『甲寅』以前にも一度発表し、そのときに加筆や操作がなされた……という可能性は皆無ではないが、やはり白氏の説には少々無理があるように思える。

 

 

 

上海時代、篤生は于右任らとともに『神州日報』を発行していた。英国に渡ってからは、于が発行する『民立報』の英国通信員として、文章を書き送っていた。なお、渡英の話に迷う篤生に相談され、「我が国の学問の発展のために」と背中を押したのが于右任だ。

 

 その于が『民立報』に記した記事。

 

「投海学生」(1911年8月12日)

 昨日、日本の新聞が英国アバディーンよりの来電として報じたところによると、中国学生の楊同生が憂憤のあまり海に投じた云々と。友人たちは大騒ぎで、英国には楊同生なる者はいないが、あるいは「学行兼優=学問、品行ともに優れている」の楊篤生のことではあるまいか、と。記者は楊君篤生とは数年来の親交があり、本紙の英国通信員の「耐可」君は彼のことである。現在、詳細を問い合わせ中。

 楊君篤生は先月手紙に多病だと書いていた。しかし彼は絶大な目的を抱いていて、世界の衆生の憂楽を自らの憂楽とする人で、自殺者には頗る不満だった……

 

「投海学生」(1911年8月14日)

さきに報じたリヴァプールで投海した楊同生について、友人たちは楊篤生ではないかと疑っていたが、本紙が英国に問い合わせたところによると、彼の人は湖南長沙の人でアバディーン大学に留学中とのこと。

ああ、それは本当に楊篤生なのだろうか。本当に我が愛友の楊篤生なのだろうか。それとも長沙に別に楊同生という人物がいるのか。アバディーンに留学中の楊同生という人物がいるのか。湘人で何かご存知の方があったら、早くこちらに知らせてほしい。

 

 

その次の記事は長文なので冒頭だけ紹介する。

 

「弔楊篤生文」(1911年8月18日〜9月13日、4回に分載)

ああ!篤生は死んだ。祖国の文豪がまた一人亡くなった。…… 「やんぬるかな、国に人無く、我を知るなし、また何ぞ故都を懐わん、既にともに美政を為すに足るなし、吾はまさに彭咸の居る所に従わんとす」ということなのか?

時代を改造する者は英雄である。英雄を鋳造する者は文豪である。文豪がなければ、英雄は社会で活躍できず、社会もまた英雄を造ることができない。ゆえに文豪は社会の子であり時代の星であり、英雄の慈父母なのである。

ここまで書いて私は、以前ある人が篤生についてこう語ったのを思い出した。彼の文章は、天下が泣きたいところを泣き、天下が歌いたいところを歌うと。

 

「やんぬるかな……」は屈原の「離騒」の終曲である。彭咸は伝統的な解釈によれば、諫言を容れられずに入水した殷の賢人。言うまでもなく屈原自身も、諫言を容れられずに失脚して、汨羅の水に身を投じている。篤生のほか、陳天華、姚洪業等、楚人の政治的な自殺といえば、誰でも屈子を思い浮かべずにはいられないようだ。

 

なお于右任は、同じ文章で篤生の「論英国工党」を紹介し、以下のように記している。

 

篤生が平生、自殺を主張しなかったのは、友人の誰もが知るところである。今こんなことになったのは、病魔によるのか心境によるのか。ああ、痛ましいかな。

『京報』に掲載された「論英国工党」に彼の最近の学識をうかがうことができる。この文章を読んで、「厭世派の抜刀自刎、投江自殺は、責任放棄で人道を損なうものだ」という箇所に至ると、涙を禁じることができない。……

 

 

わたしもまた、涙を禁じ得ない。

いったいに追悼文や伝記というものは、大げさなほどの賛辞で彩られるものだが、于右任の文章には水増しでない真情が読みとれると思う。

一つ気がつくのは、于が篤生を「文豪」としていることだ。革命前だから「革命家」と書けるわけはないが、それにしても「文豪」とは。

彼自身が英雄なのではなく、英雄を造る文豪であると。天下の憂いを感じとり、それを形にして(文章化し理論化する)世に示すことで、傑出した人材を覚醒させるとともに、その英雄を受け入れて彼が活躍できるように社会(思潮、輿論)に準備させる、そういう存在であると。

 

やはり篤生は、爆弾を抱えたテロルの実行者というより、『新湖南』をはじめとする文筆によって戦う思想家であると、于右任は思っていたのだろう。

わたしも同感だ。失礼ながら、はっきりいって、ニンじゃないと思う。あなたは線が細すぎる。実行は壮士にまかせたほうがいい。あの張良も、自らは多病で女と見まがう優男だったから、始皇帝に鉄槌を投げつけるためには壮士を雇ったし、劉邦の幕下に入ってからも専らはかりごとを帷幄の内にめぐらし、自ら出陣することは滅多になかったではないか。

 

于右任が篤生を「学行兼優」と評したのを見て、黄興の評言を思い出した。孫文に提出した人材リストに、彼はこう記す。

「この人は思想が緻密で遺漏がなく、非常に粘り強く努力する。文采、人品もまた同様である。美材なり」たいへん優れた人材であると。

個人テロをめぐって一度は袂を分かったものの、黄興が篤生を高く買っていたのは本当なのだろう。だからこそ黄興は、黄華崗起義の敗北、趙声の病死に続く篤生の訃報に、「死にたい……」ともらしてしまったのだ。

 

篤生はあまり円満な人格とは思えず、むしろ圭角のある性質だったのではないかと思われるが、深い学識と華やかな文才に(彼は駢儷文を得意としていた)、湘人らしい激情を兼ね備えた、一種魅力ある人物だったのだろう。

 

 

おまけに、孫文の呉稚暉宛書簡を簡単に紹介する。篤生はロンドンに立ち寄った孫文を訪ねたことがある。二人の会見は、この一度だけかもしれない。

 

篤生君投海の惨劇には驚きました。深く悲悼します。彼と会ったとき、悲しげで物腰の丁寧で誠実な人だと思いましたが、こんなことになるとは思いませんでした。我が身は自分のものであり、自分の好きに行動してよいように思われがちですが、人間は社会的な存在であり、社会的な責任があるので、社会のために犠牲になるならともかく、篤生君の死は残念でなりません。……

で、要するに、黄興が起義に失敗して軍を立て直すのに資金を必要としているから、篤生が遺した金を送れ、というのが手紙の主旨だ。篤生が黄興へお金を遺したのは事実だが、黄興はこの金を受けとっていないと、後年になってもらしている。さて、どこへ消えたものか。

 

 

(2008年5月18日)

 

『蔡元培全集』

『湖南歴史資料59−3』

曹亜白『武昌革命真史』

白吉庵『章士サ伝』

『于右任辛亥文集』

『黄興集』

『黄興年譜長編』

『孫中山全集』

『楚辞』(岩波文庫)

「留侯世家」『史記』(ちくま文庫)

などを使用した。

 

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