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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2022年12月 6日 7日 8日
●12月6日(火)
ちょっとした誤解? 思い違い? のため、またも失業。
で、昨日、職安に行ってきた。前の番号がまだ生きていたり、前回の失業時にもらえることになっていたお金もまだ残っているとかで、な〜んか、この三カ月は無かったみたいな気がしてしまうじゃないか。
ともあれ、また求職活動に戻ります。だけど、月に2回履歴書出せって、無理だよ。どうかな〜??と思う所にでも、出さねばならなくなるじゃないか。
結果として、これだ。
失業保険で遊ぶなよと言いたいのだろうけど、どんなもんだろうね。
●12月7日(水)
『東京朝日新聞』明治三十八年(1905年)十二月七日
「清国人同盟休校
東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」
(文中の強調は、ゆり子による)
旧・神田区西小川町の星台先生んちへ、行ってきた。ずいぶん久しぶり。西神田公園には、幼稚園だか保育園だかの子どもたちが、先生に連れられて来ていた。
この公園のどこかに、星台先生の寓があった。先生は今朝、新聞を読んでから、時間をかけて絶命書を書かれたわけだ。
先生の詩、「大地沈淪幾百秋……」をもごもごつぶやきながら、しばし佇み、彼を思った。
久しぶりの神保町は、既にわたしの町ではない気がして、どこにも寄らずに帰った。
あ〜、星台先生んち近くの愛全公園には寄ったけれど、まだ工事をしていて、「周恩来ここに学ぶ」の碑は見られなかった。いつまでやっているんだろう?
●12月8日(木)
陳星台先生、没後117年。
今日は陽射しの温かい穏やかな日だ。けれども、117年前のあの日は、天気が悪かったと思うし、そうでなくても当時の東京は、もっと寒かったはず。
そんな日に遠浅の海に入っていった彼を思うと、苦しくなる。
苦しくなる……。