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辛亥革命勃発100年によせて      

 

 今日2011年10月10日は、武昌起義勃発から満100年になる。この日にあたり、日頃思うところをしたためたいと思う。

 

1.

辛亥期の志士たちのうち、わたしがとりわけ愛するのは、陳天華(星台)、楊守仁(篤生)、宋教仁(遯初)の三人である。しかし彼らは、遯初が革命初期の13年3月に非命に倒れたほか、星台は革命以前の05年12月、篤生も同じく11年8月にそれぞれ踏海し、いずれも革命期を生き抜いていない。二人は革命の起こることを、遯初はその成功を、それぞれ祈りつつ生を終えた。

 では、100年経った今、彼らの祈りは叶ったのだろうか。彼らが命懸けで招来しようとした新しい中国は、本当に実現したのだろうか。

 彼らは、今の中国を見て、なんと思うだろうか。

 

 辛亥革命とは、数千年来の専制を倒し、アジア初の共和国を建てた革命である。

 教科書的にはそれで間違っていない。けれど、アジア初の共和国とは何だろうか。その理念とは、どういうものだろう。

 曰く、民族・民主・民生。

曰く、自由・平等・博愛。

 

民族主義は、漢族が満族の支配下から、あるいは中国が列強の支配下から脱したという意味では、達成されただろう。しかしそれは、諸少数民族についても言い得るだろうか。

 

民主主義は、皇帝による専制支配を打倒したという意味では、達成されただろう。しかし、今の中国に民主主義は本当にあるのだろうか。

 

そして民生主義は? 孫逸仙が民生主義を唱えるようになったのは、英国の労働問題や貧富の差を見て、民族・民主だけでは足りないと考えたからだという。では今の中国で、いやしくも社会主義を標榜している中華人民共和国で、民生主義は実現しているのか。報道される格差の拡大を見ると、とてもそうとは言えないだろう。

 

星台は、踏海前日に書いた亡父の小伝に、亡父は新学説に触れることはなかったが、博愛・平等主義を実行できた人だったと記している。

 

「自由」「平等」「博愛」。

いささか手垢のついた理念である。しかし100年前の当時は輝いていた。そして本当は、今も輝いていなければいけないはずのこれらのものは、今の中国ではどうなっているのだろう(もっとも、この三つに関しては日本も相当お寒い状況だと思うが)。

 つまるところ、彼ら三人をはじめとする辛亥期の志士たち・烈士たちが、今の中国を見たらなんと言うだろうか。星台だったら叫ばないだろうか。

「ああ我が同胞よ、私はこんな国を造るために死んだんじゃない!」と。

 

 

2.

 近年、フランス大革命について勉強してみた。その結果強く感じたことは、フランス大革命を「革命=revolution」の物差しとするなら、果たして辛亥革命は革命と言えるのか、ということだ。楊篤生は、中国古来の易姓革命とrevolutionとを、はっきりと区別して考えていた。彼が目指したのはもちろんrevolutionであり、満人皇帝を逐って漢人の皇帝を立てることではなかった。

 では、辛亥革命はrevolutionだったのだろうか。

 

 この問題に答を出す能力は、実はわたしにはない。しかし、疑義は持っている。確かに恩師・小島淑男先生の言われるように、その後の中国に皇帝と称するものは出ていない。袁世凱の企ては強烈な反発を呼び、挫折せざるを得なかった。以後、皇帝のような感じの人はいても、「皇帝」を名乗ることは許されていない。

秦王政が「皇帝」を名乗って以来二千百余年(夏から数えれば四千年?)。その歴史が絶えたことは、やはり大きな成果だろう。

 

 けれども、革命というのが新政治・新社会の創造であり、社会構造を根底からひっくり返すことであるならば、辛亥革命は真にその名に値するのだろうか。

 

 フランスでは、全国三部会を招集する際に、全国の町村から請願書を出させた。辺境の小さな田舎町までが、住民集会を開いて、請願書を書いた。住民集会というのは中世以来の伝統に基づく慣例であっただろうし、請願を書いた心情は、多分に国王に対する素朴な信仰〜慈悲深い王様は我々の願いを聴き容れて下さるに違いない〜によるものであっただろう。その信仰が裏切られたために、革命がパリや大都市のみならず、国中全部に広がったらしい。そして革命の進行とともに、教会や亡命貴族の財産の処分など、具体的な形で全国の人々に影響を及ぼした。特に教会の問題は、人々の心の深部に触れる問題だけに、深刻な影響があった(その分、反革命運動も苛烈になる)。

 

 一般に、フランス大革命はナポレオン擡頭までの10年間をもって区切りとするが、実際にはフランスは、右へ左へと激しく振れながら、100年近く革命状態が続く。

 普仏戦争前後を舞台とするモーパッサンの作品には、中央の革命情勢が田舎町にまで波及し、フランス全土の人民を基底から揺さぶる様子が描かれている。

 

 そういう深い変化が、辛亥革命によって中国で引き起こされたかどうか。わたしはよくは知らないのだが、阿Qさんに訊くまでもなく、疑問符を連ねたくなる。

 真に底までひっくり返すには、やはり楊篤生の密友・楊昌済先生の、教え子にして女婿である毛潤之(沢東)君の事業を待たねばならないだろう。

 

 

3.

 革命は何故だか湖南から起こる。と言うと多分に語弊があるが、あながち否定はできないだろう。辛亥革命における湖南派の働きは重要なものだし、中国革命における毛沢東については言うまでもない。

 だが、さて、その成果はというとどうか。

 

 もちろん多大な成果は上げた。清朝は瓦解し、数千年来の専制は滅びた。けれども、そうして打ち建てたはずの共和国は袁世凱に奪われ、袁を逐った後もどんどん訳の分からぬものに変質していく。これを手放しで礼讃することは、到底できない。

 

 いわゆる富国強兵、列強と伍する軍事大国。星台が近未来小説「獅子吼」で描いた中国は、21世紀の今、確かに実現したと言えるかもしれない。けれども星台が描いた新しい中国は、「共和国」だった。

陳天華は、「民族」・「民主」の二民主義で「民生主義」を解さなかったという説がある。根拠とされるのは『民報』に書いた「紀東京留学生歓迎孫君逸仙事」の中の、「孫君は『民族』・『平民』の二主義を奉ずるそうだ」という一節だ。しかし、逸仙の言うところの民生主義をそのまま容れていなかったにせよ、彼にそういう感覚が欠如していたとはわたしは思わない。彼は多くの志士と違って富裕な地主の子弟ではない。亡父の小伝では、自身の貧困も顧みず借金苦の隣人に惜しみなく金銭を援助してしまう父の姿を、愛情と誇りとをもって描いている。

 そういう彼が今の中国を見たら、どう思うだろうか。

 

 また、彼の盟友・楊篤生は、深いルソー理解に基づき、高い人間解放の理念を想起していた。彼の唱える民族主義は、民族自決主義と言ってもよいものだ。

湖南は湖南人の湖南である。中国は中国人の中国である。アジアはアジア人のアジアである。そして彼は、全ての被抑圧民族の連帯を説く。

それはつまり、満洲は満洲人の満洲であり、モンゴルはモンゴル人のモンゴルであり、チベットはチベット人のチベットである、ということにほかならない。

 

1911年10月10日の武昌起義を受け、同年12月1日にモンゴルは清からの(つまりは中国からの)独立を宣言した。

しかし孫逸仙は、12年の中華民国建国で「五族共和」を唱えた。この時点での五族共和は、すなわちモンゴル独立を承認しないと宣することだ。13年1月にはモンゴルとチベットとがお互いの独立を承認しているが、もちろんいずれも中華民国の認めるところではなかった。そして現在モンゴルは、漠北のみは独立を果たしているが、チベットの現状は周知の通りだ。

 

 篤生は、おそらく本国でもほぼ忘れられた存在かもしれない。けれども今こそ、彼の優れた思想が掘り返され、埃を払って真の輝きを取り戻されるべきだと思う。

 

 

4.

 恐らく全ての革命が、略奪され骨抜きにされる運命にあるのだろう。命を投げ出した先駆者たちの思いからはかけ離れ、特定の人々の利益のために寄与するよう変質してしまっているのではないだろうか。

 

 フランス革命も紆余曲折甚だしい。何だか分からない「フランス」のために、遠くロシアまで遠征するのの、どこが「革命」なのだろうか? けれどもそういう紆余曲折、右往左往全てひっくるめて、「フランス革命」なのだと思う。狭義には10年間の大革命だが、広義では、彼の国は今も革命の途次なのかもしれない。旧植民地である北アフリカ諸国の動向や、それらへのフランスの関わり方など、わたしも興味深く見つめ続けたいと思う。

 

 わたしは今の政治にコミットすることは好まない。宮崎寅蔵や梅屋庄吉のようになる気など全くない(なれるはずもないが)。

 けれどもわたしは、わたしが愛する志士たちが信じた辛亥革命が、まだ終わっていないことだけは確かだと考える。

「民族」も「民主」も「民生」も、「自由」も「平等」も「博愛」も、実現とは程遠い状態だと言わざるを得ない。

 

武昌起義から100年が経つが、革命は未だ終わらない。

新しい星台や篤生が、彼らの遺志を継いでくれるものと信じている。

 

 

 

 

2011年10月10日 多摩丘陵の片隅にて

 

 

《蛇足として》  

わたしは一介の主婦ながら、下手の横好きで多年に亘り辛亥革命の周りをうろうろしてきました。アカデミズムの世界からは出てしまった半端者で、陳天華・楊篤生ファンに過ぎない人間です。

彼らのことを思って文章を書いてみましたが、読み返してみると、安全な場所から無責任に人をけしかけている、いい気な日本人という感は免れ得ません。

 

『春秋左氏伝』などを読んでいると、「現実」「政治」というものが、一筋縄ではいかないことが痛感されます。学術、殊に思想史などというものが、現実にどれだけ寄与

し得るものなのか、時に疑問になります。

 

ただ、陳星台や楊篤生が見た素晴らしい景色を、一人でも多くの方が共有してくださればと思います。

(2011/10/10)

 

 

《もうひとつ追記》

「平等」というのが指すのは、政治的平等や社会的平等なのか、それとも経済的平等なのか。

ずっと分からなかったのだが、『社会契約論』に出ていたので、以下に引く。(角川文庫版 訳/平川昇・根岸国孝)

第二篇 第十一章 種々の立法体系について

  あらゆる立法体系の目的であるべき、すべての人々の最大の福祉とは、まさに何からなりたっているかを考究してみると、それは自由平等との二つの主要な対象に帰着することがわかる。なにゆえに自由か。個人の隷属はいずれも国家という政治体から、それだけの力が奪いとられることになるから。なにゆえに平等か。自由は平等なしには存続しえないから。

社会的自由とは何であるかについては、すでに述べた。平等について語るならば、この語を各人にたいし権力と富の程度が絶対的に同一でなければならないという意味に理解すべきでなく、権力に関しては、それがどんな暴力にも陥ることのない程度でなければならず、権限と法とによるのでなければ決して行使さるべきでないということ、富に関しては、どんな市民も他の市民を買えるほどに裕福でなく、また、どんな市民も身を売らなければならないほどに貧乏であってはならないということの意味に解釈すべきである。それには上層の人々の財産と権勢が中庸を得て、下層民が貪欲と羨望を脱却できることを前提とする。

(原注)国家を堅牢ならしめようとのぞむならば、貧富の両極端をできるだけ接近させるがよい。百万長者と乞食の存在を許してはならない。この二つの身分は本来不可分なものであって、ひとしく共同利益にとり有害なものである。一方からは暴政の教唆者が出てくるし、他方からは暴君が出てくる。いつもこの両者の間で公的自由の取引が行われる。すなわち、一方はこれを買い、他方はこれを売るのだ。

(ゆり子注:ゴシックは原文での傍点。赤色での強調はゆり子による。)

 

特に第二段落と原注とに注意されたい。

 白状すると、わたしはルソーの言う平等は、政治的・社会的なもの、参政権や税制、身分差別等々だろうと思っていた。

 けれども、ここにはっきりと、経済的な平等の必要性にも触れている。

 18世紀でここまで! お見それしました。

 さすが、ジャン・ジャック。改めて舌を巻く。

 

 さて、20世紀初頭の辛亥志士の皆さんは、この辺りのことは、どこまで認識していただろうか。

 楊篤生の労働運動への関心の強さなど見ると、案外あなどれない気も、しないではないが……。

(2014/1/31)

 

 

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