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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2019年12月 3日 7日 8日 31日

 

●12月3日(火)

 先月末に履歴書を2社に送り、両方とも面接を受け、採用通知をいただいた。今まで書類で落ちることが多かったのに、この快挙。職安のおばさんが書類を厳しく添削してくれたおかげだろうか。多謝!!

 

 で、今までとは畑違いの会社に決め、勤め始めて今日で4日め。前任者は、なんと先月末で退職。つまり引き継ぎは2日間のみ。

 訳わからん。

 

 でも、なんとかがんばりましょう。

 

 

 

 

●12月7日(土)

『東京朝日新聞』明治三十八年(1905年)十二月七日

 

「清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」

(文中の強調は、ゆり子による)

 

 

 

 

●12月8日(日)

 陳星台先生没後114年。

 

 旧・西小川町の東新訳社跡へ行ってきた。久しぶりの神田の町。

 

 東新訳社があったと思われる西神田公園に行って、驚いた。思っていたのと、全然違う。

 

わたしの知っている公園は、近隣の勤労者のお昼ご飯の場所だ。だから、ここのベンチで食べるつもりで、途中でお昼を買ってきてしまっていた。

 

ところが、日曜の公園は子供たちの世界だった。ブランコをこぐ女の子たち。その向こうの、わたしが当てにしていたベンチの辺りでは、幼い白人の兄弟がボールを蹴っていて、背の高いお父さんが見守っている。

言うまでもなく、これが正しい公園の姿だ。考えてみれば、公園を見下ろす高層の建物も、入り口脇の古い建物も、区営住宅だ。住んでいる人がいるのだから、子どもだっているのは当然だ。勝手に勤め人の町だと思い込むほうが間違っている。

 

そして114年前には、星台先生もここに住んでいた。

 

 ともかく、そういうわけで食事は諦め、隅っこでボソボソと、「大地沈淪幾百秋……」の詩とお経とを唱えた。

 

そのまま帰るのももったいないので、目と鼻の先にある愛全公園に向かう。「周恩来ここに学ぶ」の碑(留学生向けの予備校の跡)を横目で見て通過しようと思ったら、公園に入っていく青年がいた。彼は真っ直ぐに碑に向かって行き、脇に立つ説明板の前に立ち止まった。

こんなものに興味を持つ若者がいるのかと、驚くとともに、うれしかった。

 

 よく晴れた、寒い日だった。

 

 

 

 

 

●12月31日(火)

 劉道一君 没後113年。

 

 

 

 

 

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