明治三十八年(1905年)十二月二十六日

 

支那学生問題(再び)

別項掲ぐる所の支那学生吼獅君の投書は、一昨紙上の青柳君の投書を論駁したるものなるが、青柳君が其本名を以てしたるに対し匿名を以て之を行る、礼に於て穏当ならざるに非ずと雖も、吾人は其論旨の見る可き者有るが為めに特に之を載録したり。吾人を以て之を見れば、青柳君は日本の教育事業のために、支那学生に対する下宿屋的学校を非難するを主旨とす。吾人の素論と合ふもの有り。然るに吼獅君の論旨は頗る見る可きもの有るに拘らず、なお一を知りて二を知らざるの憾みを吾人の胸中に与ふるものたるを免れず。文部省令を否とするの意は、学問選択の自由を尚ぶに出づるが如くなれども、其実は下宿屋選択の自由を尚ぶと同一の弊に陥らざるを得るや否や。遺憾ながら吾人は以て支那学生の我儘の沙汰となす。且夫れ学問選択の自由といふ一事、別に察せざる可からざるもの有りて存す。日本の良父兄は決して其子弟の自由に任せて学問を選択せしめざるなり。放縦の弊を防ぐがためには、時としては子弟の自由選択を抂げしむることあり。支那に於ては然らざるや否や。そもそも教育は或意味に於て一種の検束たり、少くも放縦を許さゞるだけの範囲に於て検束たり。日本の学校教育を無検束視して、之を利として来りて留学したる次第ならば、蓋し支那学生は始めよりして過てるなり。

 

 

 

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