明治三十八年(1905年)十二月二十四日

 

●四たび支那留学生問題に就て 青柳篤恒(投)

余や支那留学生問題に就て本紙紙上を汚すこと既に三回の多きに及べり、恐懼々々。一たびは本年七月十七日に於て、「清国は清国の清国なり、清国子弟の教育は清国人自ら之に任ぜざるべからず」として、清国京外当局の大憲に向つて清国国民教育の大本を確立せむことを慫慂し、十一月初旬我邦文部省、清国人を入学せしむべき公私立学校に関する規程なるものを発布するや、余は其措置の宜しきを得たるものなるや否やを疑ひ、再び十一月十二十三両日に於て、「我文部当道の諸公は清国学生東漸の大勢に鑑みて此の規程を立案制定せられたるものなるや」を責問し、併せて同国学生に対する我邦の処置方針を確定樹立せざるべからざるの要、日に急なる所以に論及せり。嗣いで今回の支那留学生紛擾事件激発するや、余は業に已に文部措置を云為するの時機に非らざるを思ひ、我邦人士にして支那人固有の民族的精神に就て周知する所なく、苟偸姑息以て此の事に従ひ、大患を後日に貽さんことあらむを恐れ、三たび本月八日に於て、「退学帰国均しく其意に任ずべし、来者不拒去者不追の態度を以て之に蒞むべし、断じて甜言蜜語推諉之れ事とし、猥りに自ら枉譞して其歓心を邀ふるが如き醜態あるべからざる由」を警告せり。

爾来我邦文部の当局は支那留学生総代に答へて「仮令八千余名の学生悉く帰国することあるも誠に致方なき次第なり、之れが為め日清両国間の親交を傷つくる虞もなかるべく、若し今回の問題位にて両国の国交に関するが如きことある国民とすれば敢て手を携へて事を為すの国民にあらず、諸氏の帰国は日本に於ては深く痛痒を感ずる所にあらざるも、諸氏の為めに深く惜む所なり」と声言し。支那留学生教育に関係する都下諸学校は会議の上「各学校は極力支那留学生の省令に対する誤解を解くことに努め、斯くても尚惑を解く能はずして帰国するものに対しては遺憾ながら其意に任すの外なく、尚留まりて修学する者に対しては従来通り教授せん」と決議し。都下の各新聞は一二の者を除くの外、皆期せずして同一筆法に出で、此際枉屈譲歩の断じて不可なる所以を論述せり。是れ皆其当を失せざるの施措にして、余不敏尚竊に満足に堪へざる所なり。

惟り我政界の一二先輩は、昨今今回の支那留学生問題を以て進んで政府に迫らんことを努め、尚消息通の伝ふる所に拠れば、来るべき議会に於て議題として提出せんとするの議ありと、余不敏深く此れを危ぶむ。政府の措置尚ほ攻むべし、国家の威信は遂に侵すべからざるなり、余も亦始めより第十九号の如き文部省令の発布を以て然りとなすものにあらず、而かも支那留学生の紛擾――殊に不穏過激の手段に出でたる騒動始まれる今日、省令発布の可否を以て責を当局に問ふよりも更に一層重大喫緊なる問題の眼前に横はれるを慮ぱかるものなり。但し余は堂々たる政界の先達にして苟も此問題を利用して徒に政府攻撃の具となすの陋を学ぶものに非らざるを信ぜんと欲す。

結局此事件の治まる所、体のよき譲歩乎、将た枉屈乎、余之を知らず。只だ不幸、文部当局にして腰挫け、学校にして超然たる態度を維持するに倦み、我邦先進の士にして仲裁融和等姑息手段を弄するに終らば今より以後日本に於ける支那人教育事業なるものは利を漁するといふの外、全たく其神聖なる意義を没却し去らんのみ。事若し茲に至らば、余は各学校共寧ろ門前高く一金看板を掲揚し、公々然営利てふ一貫せる主義を以て天下に標榜し、顧客を招徠するの優れるに如かざるを信ず。於是乎、日本に於ける支那人教育事業の前途全く休す、余にして絶望の余、涙を呑んで永く支那留学生諸君と訣別するの已むを得ざるに至ることなくんば則ち幸なり。

寄語す、支那留学生諸君、諸君幸に自愛、清国の為め健全なれ。余も亦自愛、我国の為め頑健、東方に於ける我邦不動の根本的大方針を劃策するの途に於て、不敏敢へて犬馬の労を辞せじ。諸君は諸君の為めに、余は余の生れたる邦家の為めに、各々懸命の力を效す、是れ公私の分るゝ所、豈に共に其国家に忠なる所以にして、又合して東亜の大局に資する者にあらずして何ぞや。

 附記 余は早稲田大学に在り、而かも余が草莽の一書生として危言私論する所、恒に同大学の関知する所に非らず、読者諒焉

 

 

 

 

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