明治三十八年(1905年)十二月十七日

 

●清国学生事件

▲学生側の主張

東京各新聞記者十数名は清国留学生の希望に依り昨日午後一時より学士会事務所に会合して省令反対の理由を聞取りたり学生側よりは学生会幹事程家檉張継其他二三人の人々出席し各主張を述べたるが其要領は例の体面論と公館紹介の規定を不便とするに外ならず、彼等は曰く、従来清国学生は各学校の校規の下に立ち相当の監督を受け居れるに文部省が特別の法令を以て検束を加へんとするは不当にして且不必要なり又公館紹介の規定に至りては学問の自由を奪ひ去るものにして学生の最も不便とする所なり(中略)政治経済法律の学問を修むる者は動もすれば本国政府に懌ばれざる傾向ありて革命分子を以て見らるゝ者多くは此連中に在り革命派などゝは思ひも寄らぬ学生にして政治法律を修めたる為め嫌疑を受けたる如き類もありとて種々内情を訴へ之に対して記者側よりは体面論の無意義なること、特に無益の動揺を起して反抗の色を示すが如きは以ての外の事にして又彼等の不利益たるべきこと、公館紹介の実際不便なるは全く諒察せざるにあらざるも文部省は最も寛大なる解釈を下し居れるを以て実際に於て杞憂に属すべきこと等を説明したるに彼等亦稍解する所ありたるものゝ如く明日を期して学生全体に対し諸君の注意を伝ふべしと約し尚種々の質問応答を交換して散会す

▲主張の変化

最初支那学生が省令に慊焉たりしは寄宿舎取締の件、公館紹介の件等を重なるものとしたるが漸次激昂の度を高むるに随ひ漸く体面論に移行き昨今は専ら其点に於て反抗の態度を示し居れり(中略)目下東京に在りて騒ぎ居る者は主として新来の学生にして新聞一つ満足には読めず日本語にも通ぜず省令の内容、其実際の利害に思至る余裕もなく一意に体面を毀損せられたり侮辱せられたりと怒り居る連中多きが如し

▲東京を去れる者

は今日まで千三四百名に上るべし(後略)

▲公使館と彼等

彼等の一人は語りていふ、十月頃学生取締令発布の噂あるや公使館に就き事実如何を問合せたるに知らずとの返答なりしが其後省令愈発布せられたるより更に公使館の意向を聞きたるに公使の言は朝暮に変じ頗る学生を惑はしめ日本の事情に明かならざる新来学生の如きは或は為めに帰国の決心を促されたる傾きなきにあらずと、又湖北派遣の学生監督李某の如きは予も彼の省令には反対なり帰国を欲する者あらば一人に付三十円宛の旅費を補助すべし予も亦最後に引上げんと声言したることもある由

▲結局如何

文部省が成るべく省令の解釈を寛大にして交譲の精神を示せるは既記の如くなるが学生の躍起組は今日只無我夢中に騒ぎ居る始末とて直に彼等を反省せしめ得るや否やは稍疑問なり然れども彼等の間にも竊に前後を考へ得失を案じ居るものもあり特に在留久しく日本の国情に明かなるもの程分別心も出来居れば自然彼等の反省は此辺より萌し始むるならんかと云ふ

 

 

 

★ゆり子蛇足 程家檉は12月1011日に投書が掲載されている。張継(1882〜1947)は早大留学生で同盟会員。『民報』に携わる。渡日前には章太炎、章士サ、鄒容と四人で義兄弟の盟を結んだこともある。後に同盟会内で孫逸仙排斥の動きが高まったとき、孫をかばう劉揆一と民報編集部で殴り合いを演じた逸話は有名。火の玉とあだ名されていたとか。

 

★全文をご覧になりたい方は、ゆり子まで

 

 

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