明治三十八年(1905年)十二月十六日

 

●支那学生事件に就て孫逸仙の為め弁誣す

十四日在東京孫逸仙氏の親友(投)

 

本日の読売新聞第一面に「留学生誤解」「(上略)之に関しては革命党の首領株たる孫逸仙其後に潜みて彼らを煽動しつゝあり」と題する記事あり、此は大に誤なり信ずるに足らざる伝説なり、孫逸仙氏は已に十月初旬横浜を出発して南洋に往きたり、取締規程には聊も相渉せず、事実上に於て既に煽動するの由なきのみならず理由なき紛擾をなすは又孫逸仙の意志と相違反するものなり、孫逸仙なるものは排満革命を以て唯一の目的となし、其他には毫も排外の野心なし、殊に日本に対しては支那日本の国民的聯合を主張するものなり、其の序行する所の民報雑誌を見ば世人は彼の目的を知るを得べし、文部省取締規程に至りては其の国際問題と渉するなきことは勿論、仮令彼の誤報者が言ふ如く満清政府の主動にして間接に学生に対する圧制手段なりとするも悪恨仇視すべきものは満清政府にありて日本にあらざるなり、満清政府を悪恨するに却て退学帰国を争言し、以て日本政府に対抗するが如きは孫逸仙の断じて取らざる所なり、孫逸仙平昔の志望は民族主義の有志と相謀て新しき国家を組織し以て満人を駆逐するにあり、苟も此の目的を達するを得ば忍辱含垢も亦厭ふ所に非ず吾等は今日を以て友邦なる日本と客気を争ふなりと思惟せず、満清政府と其の国の存亡を争はず却て無用の体面論を為すが如きは吾等の志にあらず(中略)而して吾等は取締規程に対する運動を以て祇だ留学生の誤解となし国際問題と関係せざるを信ず、体面論をなすは実に謬なり、区々数吾特に孫逸仙の為め弁誣をなす

 

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