明治三十八年(1905年)十二月十四日

 

清国学生事件

留学生の帰国

八千二百有余名の留学生は遂に断然帰国するの決議を為したるが而も日本の船に乗るを屑(いさぎよし)とせず上海の招商局に打電し汽船を招きて帰国の途に上る筈なりと云ふ而して已に退京せる者一昨夜までに二千余名に上り(中略)中には帰国煽動者の強迫を避けて東北地方或は箱根地方に旅行する者も少なからず兎に角連日彼等が帰国支度の為め三崎町附近は荷物車の絡繹たるを見受けぬ

事件の真相

今回の事件に関し最も有力なる者は彼の革命を夢想せる一派にして此等は文部省が留学生保護の目的にて発せる省令を以て是れ北京朝廷が楊公使をして日本文部省に交渉し我等を圧迫せん精神に出たるものなりとなし今後漸次北京朝廷より圧制を加へんとすと曲解せるより従って彼等の間に楊公使の不信任は益々其の勢力を加へたりされば彼等の檄文中にも満奴楊枢など云へる罵詈の言を弄しつゝあるを見るなり

▲彼等根本的の誤解

如上の説は彼等中野心家の唱道せる所とするも中に又日本政府は支那をして第二の朝鮮たらしめんとするの大野心を蔵し漸次圧迫を加へんとし清国独立の要素たる我々学生に向かつて先づ抑圧を加へ其第一着として省令を出したるものなりと称する者あり故に或る一派の檄文中には日本は必ず我が祖国を高麗にせんと欲し云々の文字あるを以てしても知るべし

▲彼らの結合力

支那人は元来非常に団結力の鞏固なる人種なれば今回の事件にも其主張する所こそ必ずしも一様ならざれ其祖国を辱しむると云へる点及び利権回復と云へる点に於ては全く其歩調を一にして団結せるものなり(中略)彼等の檄文中にも世界の大国米国に向かつてさへ一致団結の結果は遂に最後の勝利を得たる云々とあり

所謂敢死隊

神田鈴木町に清国留学生会館なるものあり之に出入せる留学生の団体に敢死隊と称するものあり或は教唆煽動或は強迫威圧によりて学生の帰国を勧め若し従はざるときは暴力に訴ふるを辞せざる有様にて常に下宿屋等に人を放ちて探偵を為しつゝあり而して彼等は留学生全体の帰国を待つて之が殿後を為さん決心なり

▲不穏の風説

去る二日彼等学生幹事会に於て彼の一時康有為の実弟として伝えられたる楊度なる学生は敢死隊の説に対し反対意見を述べたるより彼等の殴打する所となりて重症を被り目下横浜病院にて治療中なりと又陳天華と云へる青年学生あり平素温厚の質にて同僚間の気受けも宜しかりしに先頃品川沖に投身溺死せり其の死因頗る怪しむべし

彼等の前途

現今の所にては最早省令の撤廃若くは改正を為すも彼等は止まるの意志なく全く当初の意見と相反する状況と成り了り稍々政治的意味を含み来れるものゝ如し

 

 

 

★ゆり子蛇足★

・この記事、見出の活字の大きさは大中小三とおり。

・事件が案外しっかりと把握されていることがわかる記事である。

・「彼等の結合力」の項、「支那人は元来非常に団結力の鞏固なる人種なれば」とあるのは、十二月七日の記事に「清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる」とあるのを見ると、笑止と言わざるを得ない。事態は容易に収まるとたかをくくっていたのが、予想に反したためか。

・「不穏の風説」の項、陳天華の自尽は殺人であるかのような書きぶりである。楊度殴打事件の真偽は寡聞にしてしらない。なお、楊度は留学生会館幹事長で湖南人。康有為の弟ではない。

 

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