明治三十八年(1905年)十二月十二日

 


支那学生問題

学校生徒のストライキてふ事は、此迄公私学校に於て随分行はれたる悪風なるが、今度都下在留の支那学生が企て来りしストライキも、之に感染したるものなる可く、多く意とするに足らざるなり。只其ストライキの仕方の仰山なる一事稍々異とす可き者あるのみ。此に就ては、吾人は日本教育家の彼等に与へたる管理上、自然に之を速きたる闕典の存在を認めざるを得ず。支那学生の都下在留数三千以上に達すと称せられたる頃吾人は其数の次第に増加す可き勢を察し聊か其管理に関する意見を陳述したることあり。其大要は特別待遇を非としたるに外ならず。特別待遇が彼等を誘ひて驕泰ならしむるの傾向を生ぜんとする、是吾人が患ひ且つ戒むるの必要を感じたる所以なる。(中略)此無用の特別待遇あるがため、支那学生は学校を宿屋視して、教育家を宿屋の主人視して、殆ど聞くに堪へざる苦情を唱ふるの端を啓き、吾人の耳にまでも其声を達せしめたる事あり。支那学生驕泰の非難す可きは勿論として、支那学生をして驕泰ならしむるに至れる学校の管理法亦非とす可し。驕泰の弊は流れて変じてとなり驕傲となり、遂に文部省が前月を以て発したる『清国人を入学せしむる公私学校規程』に対する反抗心をも惹起すに至れり。ストライキ生は曰ふ、規程の内容如何は問はず、清国学生を日本学生同様に取り扱はず、別種の規程を設けたる侮辱なりと。自己の便宜なるだけは何処までも特別待遇を甘受し、聊か不便宜なるものあれば則ち其内容の如何を問はずして反抗す。驕傲にあらずして何ぞ。しかも吾人は少年学生を咎むる前に、先づ日本教育家の従前の特別待遇を非とせざる可からず。(中略)

吾人は農科大学卒業生たる程家檉君の投書を承け、之を一昨日来の紙上に登載したるが、君はストライキ論者なり、多分は前述吾人の道理に関してたやすく首肯せざる可し。しかも吾人は猶更に一言する所ある可し。若し支那学生をして尽く君の如く在留八年に渉り、大学に入りて大学を卒業し得る者のみならしめば、文部省の別種規程はいかにも無用ならんが、只実際然らざるを奈何ともし難し、而して為に意外の誤解をも生ず。君亦日本に通ずること未だ農学に通ずるが如くならざる者あるに似たり。君は新聞紙上支那学生に対する云々の批評に対し非常に憤懣するものゝ如し。吾人は君の憤懣を以て道理ある憤懣となす。然れども此の如き憤懣を自由に訴ふることを得ば、支那人に対する従来の吾人の憤懣も亦諸君に対して訴へたし。支那人は幾百年来、日本人を夷狄視したり。昨日まで猶吾人を称して東洋鬼となせり。此の如きは日本人に如何なる感覚を起させめ居たるものと見るぞ。之に通ぜば則ち君亦恐らくは自ら顧みずして已む者にあらず。要するに互いに注意せば則ち可ならん。吾人は君の自称する所を信じ、君を少年学生視せず一紳士視す。此を以て之を言ふ。

 

 

 

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