明治三十八年(1905年)十一月十三日

 

投書

●再び支那留学生問題に就て(続) 青柳篤恒

支那現時の学堂は其維持の方法学生より納附せしむべき束脩月謝等の収入に頼るを得るか。否。清国学堂現時の実況は一名の学生を収容する、皆其各自の学費を供給せざるべからざること、猶ほ我邦二十有余年前の各官立学校に於て見たるが如し。況んや支那人得意の形式的設備は学校建築、校内施設の上にも著しく、南京に於ける三江師範学堂の如き、一年の経費銀二十万テール、其規模の宏大なる、設備の整頓せる、多く其儔を我邦に見ず。是を以て我邦にて一千人を教育し得べきもの、清国にては僅かに一百人を教育し得るに止まる。校舎の如きは、掘ッ立の儘にて間に合はし、経費を節減し、一校舎建築の費用を割て二校舎三校舎を増築し、可及丈多数の学生を収容訓練し、以て国家の急需に応ぜむとするが如き、到底支那人に望むべからざるなり。

学堂開かれ、昨日の科挙に代はりたりといへども、門戸狭隘、路径険阻、これを攀づる尤も難く、動もすれば徒らに学堂門前に低回佇立して風雪の艱ます所とならむのみ。左りとて此儘に登竜門前を素通りせんか、一身の栄誉何に依つてか之を求めん、是に於て乎、無数有為学生は互ひに約束したらむが如く「右向け右へ」の歩調正しく、学堂門前を辞し、進路直ちに東を指さし、千里の遠きも何かあらん、潮の如く北は天津、南は上海、日本通ひの便船ある毎に、乗込まむとしては、他人に機先を制せられ、満員となりては断わられ断わられ、便船二三杯目にヤツトコサにて船室の一隅に跼蹐するを厭ふ余裕もなく東京へ東京へと詰めかけ来るなり。見よ支那学生の東航せんとするに急なる、東京各学校の学期学年にも一向お構ひなく、学年の中途にて入学拒絶に遇ふも顧みず、一時一刻も早く東京に乗り込まむと熱中するの実情を。

都下、清国留学生の現在数は将に八千ならむとすと、科挙全廃、学堂不足、他に立身出世の途全く杜絶せる今日此際、其来航するもの倍蓰して滔々水の低きに就くが如けん。来遊留学生の数愈々多く、随つて其日清両国前途の為め、東方大局の為め影響する所以の理、愈々益々逼迫緊切なること、本年七月十七日東京朝日新聞第六千八百十五号紙上、及光緒三十一年九月十四日発行清国上海「時報」第四百八十三号紙上掲載の拙論「支那留学生問題」に詳らかなり。東方憂国の志士、其拙陋を棄てず、幸に覆読是正の栄を賜へ。

嗚呼、支那留学生の問題は、啻に清国の問題にあらず、又日本の問題なり。啻に教育界の問題のみにあらず、又日清両国の将来に関せる国際間至大の問題也。而して此問題に関して研究画策せざるべからざるの要、輓近頻りに其切なるを加ふ。借問す、日清両国廟堂の諸公、果して如何の成竹かある。頃者、我文部省は省令を以て我邦在留清国学生に関する規則なるものを発布せり、縷々十数條、懇篤剴切至れり尽せりと謂ふべく、我邦教育家にして清国学生教育に与れる者、我邦在留の清国学生と共に倶に其慶を享けむ。而かも我文部当道の諸公は、我が前述せるが如き滔々澎湃、到底人為を以て防塞す可からざる東漸の大勢に鑑みて立案制定せられたる者なる耶否耶。清国亦今や北京総理学務所を拡充して、文部を創設し、前の湖南巡撫端中丞、学務大臣張尚書を挙げて教育行政振張の籌策ありと聞く、余や草莽の一布衣、敢て威厳を冒涜して両国文部当路諸公、及び両国在野憂世の志士の猛省を促がし叱正を乞はむこと切なるのみ。多罪。(明治三十八年十一月九日燈下)

 

 

 

 

 

 

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