明治三十八年(1905年)十一月十二日

 

●再び支那留学生問題に就て 青柳篤恒(清国の科挙全廃と我邦に渡来する清国留学生)

 

科挙は支那人士の世に出る唯一の登竜門なり。彼の清国の学位たる進士といひ、挙人といひ、秀才といふ、之を得るものは以て驥足を一世に展ぶるを得べく、之を失ふものは身を荊棘草莽の中に没し去らんのみ。支那にて初対面の挨拶の折、「有甚麼功名」と問ふ、蓋し如何なる学位を有し給ふやの意なり、知るべし現時清国人の視て以て功名となす所のもの、一に学位を有するの如何に存するのみなることを。

余嘗て之を大隈伯に聞く、科挙の害は秦皇焼書坑儒の害よりも甚だしと。故あるかな光緒二十九年清廷英断、八股文の制を廃し、爾来孔孟の教を以て経となし、西洋専門特科の学を以て緯となし、以て人材を養成せんてふ詔勅を煥発するや、湖広総督張宮保之洞、直隷総督袁宮保世凱二氏聯銜上奏し立どころに科挙の制を全廃せんことを闕下に請ふ、曰く「科挙なるものは僅かに一日の成績に依つて其人を選択す、其日其時其場合丈けの成績に依つて、是は優等なり、彼は劣等なりとして階級を附するもの、天下豈に此くの如きの不公平あらんや。然るに学堂なるものは、積年の成績に依りて優等劣等を評定詮衡す、真に公平無私なる人材登用法と謂つべし。今や陛下聖明、学堂の制を立つ、仰ぎ願はくは此際科挙の制を全廃せん」と。然るに当時清国中央政府に是に対する反駁論を提唱するものあり、大学士中堂文韶氏尤も努む、力を極めて袁張二氏の説を陛下に抗争して曰く、「科挙なるものは支那人士の世に出る唯一の捷径、立身出世をなす無二の門戸のみ、故を以て世間科挙を見る頗る重く、学堂の価値未だ一般に認められず、尚之を軽視するの傾向あるを免かれず。学堂の制度四方に普ねく、遺憾なく全備したるの暁ならんには兎も角、今や学堂創設の議初めて成り、其制度未だ全備せざるに及んで、一朝にして科挙の制度を全廃せんか、全国の士子立身するの道を失なひ、民心動揺する必せり矣、惟ふに是れ策の得たるものにあらず、陛下冀くは之を熟思せよ」と。袁張二氏亦以て然りと為し、外に一策を劃して(中略)、朝議之を嘉納す。然るに此袁張二総督の折衷立案せる九年繰延策は、端なく実行を見ずして止みぬ。今や清国百度維新、新学勃興の趨勢は朝暾の東天に昇るが如し、一瀉千里、急転直下、大濤澎湃として隄を決するに似て、科挙全廃すべしの声は向ふ九個年間を猶予するに遑あらず、今光緒三十一年果然科挙全廃を天下に宣布するの上諭は下りたり。科挙一たび廃たる、我邦に来遊せんとする支那留学生の上に如何に影響せんとするか。

余は茲に前述せる所を繰返へさゝるべからず、曰く科挙は支那人士唯一の登竜門なりと。而して今や此唯一の登竜門は閉ざゝれ杜塞せられ了んぬ。支那四億万人衆の中、倜儻大志あり名を揚げ家を興し父母の名を顕はさんとするもの、将に那辺にか適かんとする。科挙は廃たれぬ、我も人も共に向はんとする所、夫れ学堂なるかな、学堂なるかな。

科挙閉され、学堂は開かれぬ。支那十八行省数万の儒生は吾れ勝ちに学堂の門に攀ぢんとして、エイエイ声して馳せ集り、開け開けと喊呼しぬ。夫れ支那現在の学堂は此無数雲霞の如く集合せる学生団を収容し、訓錬し、薫陶して遺憾なからしむるを得るか。(未完)

 

 

赤字は原文では傍点を附されている。

 

★全文をご覧になりたい方は、ゆり子まで

 

もどる