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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2018年12月 2日 6日 7日 8日 9日 16日

 

●12月2日(日)

 あっという間に12月。

先月は、夫の郷里に舅姑を訪ねたり、旧友と久しぶりに「デート」したりと、忙しかった。

 

今日は金星の最大光輝だったのだが、喜んで起きたのに全くの曇天。さすがの−4.7等のヴィーナスも、この雲の厚さには勝てない。明日拝めればと思うけれども、天気はずっと悪そうだ。

そんなものさ。

 

昨日は昼前に家を出て、春日駅に降り立ち、講道館前に立つ治五郎ちゃんに、こんにちは。なにか催しでもあるのか、外国の方々が入れ替わり立ち替わり現れては、治五郎ちゃんと一緒に写真を撮っている。胸に「JUDO」と書いたシャツを着ている人も多い。

憧れの地、憧れの人物なのか。

夫が白人女性のグループに頼まれ、撮ってあげた。スマホなんて持っていないから要領が分からないし、言語も不通だが、なんとか撮れたようだ。一枚撮って、これで良いかと見せると、治五郎ちゃんの頭上の「講道館」という額も入れて欲しいと言われ、撮り直した。お互いに理解したい気持ちがあれば、身振りと単語とだけで通じるものなんだね。

彼女たちは、続いて来た太極旗マークのユニフォームの女の子たちに、同じように頼まれて撮ってあげていて、こうして交流は続いていくんだなと、なんだか楽しくなった。

 

そこから歩いて弘文学院跡へ。と言っても、碑の一つもあるわけではない。住所からすると、この辺だな、というだけ。

飯田橋駅まで歩き、水道橋まで一駅乗って、皀莢坂を上る。清国留学生会館の跡だけれど、これだって、地図からするとこの辺、というだけ。

坂を降り、少し歩いて西神田公園へ。ここも、住所と地図とから、この辺だろうと推測しているだけだ。

でも、確かにこれらの場所(除・講道館)に星台先生はいたんだ。西小川町1−1の東新訳社から、皀莢坂を上って駿河台鈴木町18番地の留学生会館へ、彼は何度となく歩いただろう。

法政大学が市ヶ谷に移ったのは大正になってからだから、彼が学んだときは、まだ駿河台にあった。となると、どういう道を歩いて行ったのだろう。あの辺、高低差もあるし、道が斜めにぐちゃぐちゃしているから、とても真っ直ぐには行けないし。ジグザグに行くにしても、どの道をとっただろう‥‥などと色々妄想するのもおもしろい。

 

8日は土曜日。大森に行ってみようか。

 

 

 

●12月6日(木)

 明日は都合で東新訳社には行けないので、今日、行ってきた。

 傘をさすかどうか迷う程度の雨の中、西神田公園にはほとんど人がいなかった。

 三人連れの女の子とすれ違ったが、彼女らは中国語を話していた。都心で中国語を聞かない日はないくらいなのだが、さすがに場所が場所だ。

 おーい、知ってるかい? 113年前、ここに偉人が住んでいたんだよ。

 

 

 明日の新聞に例の記事が出るのだから、今日が最後の「普通の日」なのだけれど、本当にそうなのだろうか。

 もちろん、決断したのは7日の記事を読んでなのだが、それは「最後の藁一本」なのであって、本当はもう少し前に気持ちは決めていたのだろう。

 

 あさって、大森に行ってみるつもりだ。

 

 ※子どもの頃、浴びるほど読んでいた翻訳の児童文学で知った諺、「最後に載せた藁一本で、らくだの背を折る」。これに相当する諺がないかと、ずーっと探しているのだけれど、まだ思い当たらない。

 

 

 

●12月7日(金)

『東京朝日新聞』明治三十八年(1905年)十二月七日

 

「清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」

(文中の強調は、ゆり子による)

 

 

 

●12月8日(土)

京急の大森町駅で下車して改札を左に出て、第一京浜を渡るとすぐに、一軒目の海苔屋さんが目に入った。頭に手ぬぐいを巻き割烹着を着たいかにも「お母さん」という感じの女性が、明治時代さながらの古びた家屋の中で手作業で海苔を箱詰めしているのが、ガラス越しに見える。

もう海苔なんか、採れないだろうに。

 

よく晴れて寒い日だった。近くにお寺があるらしく、途中墓地が広がっている。

ゴルフ場を迂回すると行き止まりに思えたが、内川排水機場の前に道が伸びていて、大きな広場に導かれた。

手前にはフットサル場があり、掛け声がのどかに聞こえてくる。

広場の入り口には「大森ふるさとの浜辺公園」と記されている。脇には「138.89平方メートル」と、その広さまで。注意書きの中には「砂浜での釣り禁止。釣磯場は可」と但し書きがあるのを見て、ここが海なんだなと実感する。

 

中に入っていくと、強い潮の香りがする。やけに屋根の大きい四阿が幾つもあり、手前の一つでは少年が二人、踊ったり騒いだりと忙しい。

 

1905年の12月8日、陳星台はここ、旧荏原郡大森町字浜端で踏海して、その命を自ら断った。その理由が知りたくて、今日、2018年の同日にやってきている。

 

『陳天華小伝』当時のわたしは、陳星台が自分の死を政治的に利用し、四分五裂しかけていた留学生たちを一致団結させようとしたのだと思っている。と同時に、彼らに覚悟を改めさせて、なんとか「救国」の事業を完遂させようとしたのであると。

 

頭の中で考えた事だけでは、本当に「分かる」ことは難しい。今こうして、現場(最近になって復元した人工の渚ではあるのだけれど)に立ってみれば、何か新しい事が分かるかも知れない。

 

そう思って白い砂を踏んで、波打ち際まで行った。

よく見れば15メートルほど海に入ったところに、2、3メートルの高さの杭が、50本以上海面から伸びていた。海苔の養殖を再現でもしているのだろうか。

オレンジ色のブイが30個以上浮いているのは、何の為だろう。

 

しかしこの海に「沖」はない。30メートルくらいだろうか、すぐに埋め立て地の工場が視界を塞いでしまっている。左右に広がる流れの果てを新旧の橋が区切っていて、遠くの工場の屋根が錆びているのが見えなかったら、とても海とは思われない。河口の一部に佇んでいるかのような光景である。

地図を見ると、目の前の工場群は「昭和島」だから、昭和になっての埋め立て地だろうし、その先の島も埋め立て地だ。見渡す限り海だったのかな。

 

轟音がして、正面の工場の後ろからジャンボ・ジェットが予想外の大きさで現れた。30度ほどの角度で空に舞い上がり、急旋回して見る見る遠く小さくなっていく。

 

静かだった波が、急にチャプリと囁いた。よく見ればたくさんの魚が波打ち際を泳いでいて、時々飛び上がっては先ほどのような音を立てているのだ。

ノソノソと歩くユリカモメを五歳くらいの女の子が追いかけていたりして、のどかで微笑ましい冬の午後だ。

 

星台先生は、こんな時間に踏海をしたのだろうか。

発見されたのが午後6時。岸から60間の場所だというから、海苔屋さんの場所から考えると、丁度この辺りだったとしても不思議ではない。

朝家を出たと宋教仁が書いた絶命書の跋文にはあるから、大森海岸に到着したのは、いつだろうか。市電が縦横に走っていたとはいっても、京浜急行に相当するものはなかったろう。電車を乗り継ぎ人力車を使ったとしても、早くて11時くらい。昼前後、もしくは昼過ぎとしても不思議ではあるまい。

 

陳星台は大森海岸までやって来て、すぐに踏海したのだろうか。水は冷たくなかったろうか。

試しに指を入れてみると、案外そうでもない。ただ海風が冷たくて、思わずコートの前を閉めない訳にはいかない。それでも頬が冷たくてたまらない。やっぱり冬だ。当時はもっと寒かっただろう。

 

その時ふと、わたしたち夫婦の横に人がいる事に気付いた。サーフボードのようなものを担ぎ、ウエット・スーツをきた男の人だ。船の櫂のようなものまで持っている。

彼は準備運動を終えると、なぜかボードの上に立ったまま、一本の櫂を器用に漕いで、右手の橋の方へとスルスルと消えていく。まるで漢詩の一節のようだ。わたしたちはただ呆然と見送る事しかできない。

 

海苔の養殖にシーズンはあるのかどうか知らないが、真っ昼間に180センチ近い大柄の陳天華が海に入っていく所を、漁師の誰も目撃しなかったものだろうか。

もし誰かいたとしても、きっと今の私のように、呆気に取られて止めるも何もできなかったに違いない。

 

そこまでして、なぜ己の命を絶たねばならなかったのだろうね、星台先生。

 

陳星台の生まれた場所は、湖南省新化県だから、海はなかった。しかし近くを大きな川である資水が流れ、町の至る所にクリークが巡っていたのだと想像している。

それが当たっているのだとすれば、彼にとっても水は、海は、己と敵対する恐ろしい「敵」ではなく、優しく包み溶かしてくれる、黒い「母」でもあったかもしれない。

 

目の前のこの水に潜れば、まだ父も母も健在だった、貧しくても幸せだった幼い頃に戻れるような気がして、彼は海を踏んだのだろうか。

 

いいや、それはわたしのような弱い人間の感慨に過ぎない。

陳天華は、星台は、同朋に奮起を促し救国の事業を完遂させる為に、己が命を鴻毛の如く投げ出したのだ。当時の仲間のほとんどが、そう考えたのは確かである。

 

本当のところは、どうだったんだろう。ねえ、星台先生。

 

渚を離れて、内川への河口まで行くと、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。

さっきまでわたしたちの立っていた波打ち際まで、太陽の返照で黄金に輝いている。その向こうにはたなびく雲を割った陽光が、カーテンの様に薄く地上を照らしている。

何かの恩寵のようにしか、思われない。

 

ふと光のさざめきの中に、黒い影が立ち上がったように想像された。どういう意味かは分からないが、陳星台は確かに笑っていたように、私には思われた。

 

星台先生は、きっと学生服を着たまま踏海したのだね。

 

 

京急の駅まで戻って、大門で下車した。星台先生とは逆コースを辿る訳だ。彼が絶命書を出したのは芝御門前。私達は大門駅から都営三田線の御成門駅まで歩き、神保町で下りた。

そして今の西神田公園・旧東新訳社へと辿り着く。

 

「おい、どうした星台」と尋ねられた彼は、いつもの壁際に座ると、俯いて「死にきれなかった」と呟く。

それから留学生会館の前まで行って、自分の出した絶命書を回収しようと郵便夫を待つ。

なんてくらいお茶目な人だったらな。あんな風に命を絶つことは、なかったんじゃないか。何をそんなに死にたがっていたのか。どれだけ絶望していたのか。ほんとうは誰に怒っていたのか。

いろんなことを考えながら、薄暗い中、皀莢坂を上った。

 

皀莢の実は、真っ黒くて大きな豆のさやのような物の中に閉じ込められていた。割ってみると朝顔のそれ位の大きさで、とても石鹸になるとは想像できない。

 

登り切ったところにある崖際の建物が、かつての留学生会館の跡地だ。2階建てで、ダンスまでできたと言うから相応の広さだったに違いない。

会館前の道は、パーキングメーターはあるが一方通行の、狭い道だ。

彼の死の報せが広まり、会館前に絶命書が貼り出されると、この道は押し寄せた留学生で埋め尽くされたと言う。陳星台の死が、留学生たちにどのような衝撃を与え、如何なる意味を持ったかは、これまでに書いてきたとおりだ。

 

 

多摩の田舎に住んでいるから、電車の駅までは距離がある。最寄りは歩いて15分だが、もう一つの駅は20分かかる。

たまたまそちらを利用した、ある休日の事である。

コンクリートの基礎工事のようなことを、数人の作業員がやらせていた。どうみても日本人ではない、まだ若い男の子一人に。

「ホラ、しっかりやれ!」と怒鳴られて、男の子は「ハイッ」と悲鳴のように返事している。

男たちは嘲笑いながら、鬱憤晴らしのように罵声を浴びせ、自らは休んでいる。

一目で技能実習生だと分かった。

できることなら飛び出して、説教してやりたいが、もちろんそんなことできる訳もない。

私は耳を塞ぐ思いで、誰かに、あの男の子に、星台先生に、そして楊篤生にも謝りながら、ただただひたすら道を急いだ。

せっかく来てもらったのに、日本嫌いにして返してどうするつもりなんだろう。いや、それどころか、あの子は生きて故国に帰れただろうか。

もしあの子が海に身を投げたとしても、悲しんでくれる人が何人いるのだろう。

 

 

この国には、至る所に留学生があふれている。特に神保町界隈には、たくさんの中国人留学生が歩いている。

星台先生の死から113年が経過した。

 

わたしたちは未だ、陳星台の夢見た世界を生きてはいない。

 

 

 

●12月9日(日)

嘉納治五郎と弘文学院について、改めて考察してみた。

 

南北に走る白山通りと東富坂との交差点から30メートルほど南に下った所に、7階建てのクリーム色の建物が聳えている。これが、講道館だ。

玄関の隣には銅像が、何やら憂い顔で佇んでいる。

ぱっと見で190センチ近くある偉丈夫として表現されているが、実際の彼は確か155センチほどの小柄な男であったはず。いわゆる偶像化作用の故だろう。

 

紋付き袴の治五郎氏が憂えているのは何であろうか。「柔よく制す」の理想をお題目として置き去りにし、今なお力の道へとひた走り変化し続けるJUDOの行く末だろうか。

しかしながら嘉納治五郎は、勝った負けただけにこだわり、つまるところ武術・格闘にしか己の価値を見出す事のできない、市井のつまらぬ武術家ではなかった。もともと東大出のインテリだったのである。

 

彼の理想は、己の作り出した柔道を教育として活用する事であった。「精力善用、自他共栄」だったか。道徳と知識とを涵養し、身体を強健に育て上げ、詰まる所は良い兵士、良い労働者を作りあげて国家の益としようという訳である。

 

外務大臣兼文部大臣西園寺公望の依頼を受けた嘉納は、神田三崎町に学校兼寄宿舎を開き、13名の中国人学生を受け入れる。亦楽書院を経てそれは、1902年1月、牛込区西五軒町(現在の新宿区)に弘文学院として創設される。

3000坪の広大な敷地には、12棟の建屋があったそうだ。陳星台も、ここで学んでから法政大学に入ったことになる。

 

ここでの教育課程は日本語の習得を基礎として、中等教育を施して、日本の高等教育機関への入学を果たさせることの他に、速成師範や技術者を養成するコースなどが作られたという。

 

この課程において、嘉納はいかなる教育を施そうとしていたのか。ここからは、清水稔「中国人留学生と日本の近代」からそのまま引用することが正しいだろう。

 

 「嘉納の教育理念は、1902年10月21日学院の速成師範科生の帰国に際して行なった講演およびそれにたいする留日学生楊度との質疑応答のなかに明瞭に記されている。嘉納の考えを概略すれば次のようになる。

  学校教育には普通・専門・実業・美術の教育がある。今の中国にもっとも必要なものは普通教育と実業教育である。普通教育とは専門教育の基礎であり、その目的は道徳教育と知識と身体強健にある。中国では徳育の基本を孔孟の教えにとり、日本の徳育もまた孔孟の教えがその大部分をしめている。教育は儒教を基本とするべきであり、ルソー等の学説は一学説にすぎず、これを教学とみなすことはできない。教育の第一義は満州人に服従することでなければならない。

 嘉納のこの理念は学院の「約束学生章程」のなかでも貫かれ、それは、学生はその本分を守り、政治に関わる論談をしないこと、自国の体制と本学院の体面を尊重し、粗暴卑猥な言動をしないこと、本学院所定の正科以外の履修をしないこと等の規定となって、留学生の行動を束縛した。

 こうした清朝体制擁護と儒教の教育理念は当時の特設教育機関に共通したものであった。」

(清水稔「中国人留学生と日本の近代」『佛教大学総合研究所紀要第2号別冊アジアのなかの日本』1995年。文中の引用箇所を青字で記した)

 

結局彼は、いわゆる「郷原」の域を出ることはできなかった。ルソーを血肉として生きる近代人ではなく、儒教(原始儒教はむしろルソーを内包する過激さを持ち合わせているのだが、ここでは後代の奴隷道徳としてのそれ)を行動の範とした「明治の偉人」に過ぎなかったのだ。

与那原恵氏によれば、嘉納は弘文学院のために大きな負債を生涯背負ったそうである。学院の閉鎖後も、留学生教育は引き継いだそうだ。(「柔道の父であり、留学生教育の先駆者嘉納治五郎」『東京人』No3022011年)

嘉納は自身も「東洋の平和と隆盛の為に尽力」することを望んだ、あくまで善良な人物であったことは疑いない。ただそれが清国人留学生たちから見てどのように映ったかを考えると、うそ寒い思いは免れない。

 

 

 

●12月16日(日)

 昨日の朝4時半過ぎ、新聞を取りに出て、流星を見た。ぎょしゃからおうしへ、1等くらい。ふたご群なのだろうけれど、全く予期していなかったのでうれしかった。

 

 そして今朝は、公園の水路に薄氷が浮いていた。10時過ぎだったのに。

ここの冬の最低気温は、「東京」より5度くらい低いのが常だ。 

 

 この冬は隣の団地の植え込みに、ジョウビタキのお兄さんがいる。その先の公園にはジョウビタキのおじょうさん。ツグミはまだ見ない。池にはキンクロが来ていて驚いた。良い池なのにカルガモしかいなくて、カモが渡ってこないのを、いつも不思議に思っていたのだが、やっと見つけてくれたのか?

 1羽だけだったけど。

 

 

 

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