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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2018年8月 3日 4日 5日 10日 11日 15日

 

●8月3日(金)

 クロポトキンの自伝にあったなあ。

帝政末期のロシア。地主貴族たちの社交の場で、ある貴婦人が別の貴婦人に言う。

「おたくの農奴、増え方が悪いんじゃありません?」

言われた貴婦人は、領地に帰ると急いで管理人に指示して、年頃の農奴の男女を適当に組み合わせて何組も結婚させることにする。

当然、村は大混乱。農奴の若者たちはそれぞれ、恋仲だったり、結婚を決めていたりしていたのに、そんなことは一切無視されたから。

貴族たちは、農奴が人間だと思っていない。それは売買可能な「財産」でしかない。人権どころか、人格があるとすら思っていない。だからツルゲーネフの『猟人日記』を読んで、本気でこう驚いたという。「農奴が私達(人間)と同じように恋をしたりするなんて」と。

 

政府の偉い人の「人口問題」などに関する発言を聞くと、いつも思い出すんだ。

「おたくの農奴、増え方が悪いんじゃありません?」

わたしたちは、働いて、物を買って、税金を払う、それだけの存在なんだな。それぞれが抱えている事情や思いなんて、一切かまわないんだ。

そういうことね。

 

 

 (補記)記憶に頼って書いたのだが、あとで原典を調べたら、ちょっと違っていた。貴婦人じゃなく単に「地主」だし、決め文句もなかった。でも、地主による農奴の「強制結婚」は珍しくなく、農奴たちも智慧を絞って抵抗していたようだ。

 

 

 

 

●8月4日(土)

 新聞報道によると、上海で習近平の看板写真に墨をかけた後に行方不明になった女性は、湖南省の人のようだ。湖南の炭鉱で働くお父さんが、「娘を返せ」とネット上に声明文を出されたとか。

 強権に抗うのは、湖南人の気質として、まだまだあるのだろうか。

 

 ともあれ、107年前の今日、楊篤生は夜汽車に乗ってリヴァプールへ向かう。

 

 

 

 

 

●8月5日(日)

 楊篤生踏海から107年。

 

 彼の「英国工党小史」をずっと読んでいる。訳すのではなく、意味がとれればいいや、というやり方で。それでも、無知なのと頭が悪いのとで、遅々として進まない。

 わたしは英国のことなど何にも知らないから、読んでいて何のことやら分からないところが多すぎる。

 

 ということで、全くの泥縄式だが、英国史関係の本をちょろちょろと読んでいる。で、改めて自分の無知さに呆れている。なにせこの国に興味を持ったことはなかったから、高校世界史以来だし、それすらほとんど忘れていて、茫漠としたものとなっている。

 

 ほんとの話、イギリスには興味なかったな。あるといえば、児童文学か。ドリトル先生、メアリー・ポピンズ、パディントン。何も考えずに親しんでいたけれど、今なら、なぜ英国から優れた児童文学が生まれたか、それを考察するのは楽しい。メアリー・ポピンズの雇い主であるジェインとマイケルのお父さんは、「シティ(=世界に冠たる大英帝国の中心たる金融街)」にお勤めだものね。

 

 それはさて措き、ざっと通史をおさらいし、産業革命期前夜くらいからをつつき回している。

 で、朝の電車で英国史の本、昼休みに図書館で楊篤生という日々。

 そうしたら、それがばちっと重なった。1889年にロンドンの港湾労働者たちが行ったストライキ。これが、篤生のいうロンドンの「船埠積貨苦力」による運動だと気づき、電車の中で声を上げそうになった。

 そんな小さな喜びを糧に、とろとろとやっているが、頭が悪くて難儀する。

けれども、篤生だって英語が分からないと嘆きながら、これだけのものを書いているんだ。身体が悪いのに、どれだけ努力したのか。そう思うと、ぶちぶちこぼしたりしていられない。

 

 「思想縝密、有類精衛」と黃興さんが評した彼の、爪の垢を煎じて飲みたい。

 あれだけの才人が、みちみち努力していたのだから、ばかはばかなりに、がんばらなきゃ。

 

 それにしても、この人、なんだって労働運動なんかに興味を持ったのか。労働者こそが、「革命」の主体となるべき「中堅」だと感じたのは、「民族主義之教育」からも明らかだが。

 

 それよりも気になるのは、篤生がマルクスをどう受容したか。あれほどの才人が、当時のイギリスにいて、マルクスを知らなかったとは言わせない。現に「英国工党小史」には、アナキズム経由のマルキシズムが、随所にうかがわれる。

 当時のアナキズムとマルキシズムとの近接・共存ぶりがうかがえて、興味深い。少なくともイギリスのアナキストにとって、マルキシズムは不倶戴天の敵ではなく、ともに手を携えるべき仲間であったかのようにも思われる。

 

 マルクスが大英博物館の図書室で研究したのは、1849年から83年に没するまで。篤生が渡英したのは1908年の初め頃。あれだけの才人が、一度も大英博物館の図書室を訪れなかったとは思えない。必ずそこで、彼のマルクスのことを思ったに違いない。たとえアナキズム的な色眼鏡で見ていたにしても。

 

 篤生の実家は湖南省長沙県高橋の中規模地主だった。主な産物は茶だったと思われる。昌済先生が高橋の茶摘み女の淫風を嘆いておられるそうだから、間違いないだろう。

 しかし当時の農村では、小作料を巡る争議は考えられても、本格的な労使闘争やストライキなどを含む全面的な闘争があるとは思えない。鉱山労働者の暴動はあっても、「産業革命」を迎えていない茶農家には、「労働問題」を認識するための実経験があったとは思えない。

 

 わたしが学生の頃の中国近代史学界では、どれだけ大革命に近いかを後づけのこじつけで評価して、「土地問題への認識がなかったからだめ」「彼は民生主義を理解していなかった」などとして、当時の革命家のランク付けを行っていたりしたようだ。今どきそんな愚かな風潮は残っていないだろうと思うけど。

 

 では楊篤生はどうなのだろう。少なくとも1911年の一連の文章において、彼は猛烈な興味をもって労働運動史に取り組んでいるように思われる。大量の賃労働者も存在しない、まだ「清国人」の彼が。

 

 わたしはこう考える。彼はマルクスを強く意識していたのだと。アナキズム経由でマルキシズムの存在を知り、『資本論』を読み替え、その誤りを正そうと企図していたのではないかと。

 

 話が大きくなりすぎて眉に唾をつけてしまわれそうだが、故人の命日ということもあり、多少の飛躍は勘弁してほしい。これは学術論文ではなく、ただの随想(妄想?)だから。

 

 彼ほどの才人が『資本論』に取り組んだとしたら、何が問題になるだろうか。英語の意味ぐらいすぐに分かるだろう。解らないのは書かれている思想の背後に控えた膨大な事象だ。平たく言えば「歴史」。

 

 ご多分に漏れず、かく言うわたしも、『資本論』に取り組んですぐ挫折したクチである。ともかく長い。そして未整理だ。冒頭の第一章だけはルソーの目を以て読み替えてはあるけれど、それではマルクスの資本論ではなくわたしの創作になってしまう。ほかに読むべきものがたくさんあるので、泣く泣く諦めたけれど、ある種の知的興奮と、資本論理解への別の可能性を感じたことは確かだ。

 ちょうどその頃「英国工党」を訳していて、何の証拠もないから学術的にはアウトだけれども、篤生なりにマルクスに取り組んでいたのだろうなという感触は強くもった。

 一流の読書人は、読了もしていない書物の名を、己の書く文章に挙げたりしない。篤生の書く文章に資本論の名が挙げられていないからといって、その存在も知らなかったという証拠にはならないだろう。

 「英国工党」を訳していると、むしろひしひしとマルクスへの競争心のようなものを感じる。いま「英国工党小史」を読んでいると、その思いはより強くなる。でなければなぜ、労働運動の歴史など繙いたりするものか。彼の家は茶農家なのだから。

 

 歴史に「もし」はない。けれどもし彼が、107年前の今日、海に沈まなかったなら、どうなっていただろうか。

 

 武昌起義の報を聞いて、急遽帰国していたならば。

その後の混乱の中、再び英国に脱出していたならば。

そして寿命の尽きるまで、大英博物館で思想的格闘を続けていたならば。

 

孫逸仙と重ねて考えている部分がないではないけれど、「三民主義」よりはるかにましで、現代に寄与しうるものが書かれたのではないかと、夢想して筆を擱く。

 

 

楊毓麟、改め守仁。字は篤生。1872年11月、湖南省長沙県高橋に生まれる。享年四十歳。

 

 

 

 

 

●8月10日(金)

 先月のライブを、まだ反芻している。

 一級の人ばかりなのだから当然だけど、みな、コピーではなくカヴァーになっていた。たとい「バイブル(=カンペ)」を見ながらでも、それはもうカスタの曲ではなくなっていた。

 ケイスケの「ジャンプナンバー」なんて、フラカンのライブで演ったら、ファンの皆さんは新曲だと思うんじゃないだろうか。それくらい、しっくりきていた。選曲も彼に相応しかったんだろうね。さすがです。

 

 でもやっぱり、元ちゃんの歌が聴きたいな。コミが会ってきたというし、だいぶ元気になったみたいだけれど、復活が待ち遠しい。

 

 

 

 

 

●8月11日(土)

 先週末、近所の公園の池にカルガモがいた。ピヨピヨちゃんを6つ連れていた。

 きのう行ったら、ピヨピヨちゃんが5つになっていた。いくら数えても、5つしかいない。

 カラスか、ネコか、この公園には猛禽もいるそうだし、誰かのごはんになっちゃったか。

 

 まあね。ここでは毎年繁殖している。去年は8羽だったか、全部育った。

そうして全部が全部育っていたら、世界はカルガモだらけになってしまう。

減る分を見越して、産む数が決まっているわけだから、しかたない。

 

 

 

 

 

●8月15日(水)

 戦没者310万人。

 その中に、戦災死者は入っていない。彼らは単なる横死者、事故や災害による死者と同じ扱いになっている。

 満州で死んだわたしの伯父(父の長兄)は入っているけれど、夫の伯父(舅の長兄)は入っていないそうだ。学徒出陣でレイテ島で亡くなったのだが、何かの要件を欠くとかで戦死とはなっていず、従って靖国にもいないし何の補償もないとか。自分で勝手に激戦地に行ったとでも?

 なんなのだろうね、この「国」は。時々たまらなく嫌になる。

 

 

 

 

   

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