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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2018年4月 1日 2日 5日

 

●4月1日(日)

 一昨日、TVで天気予報を見て、目を疑った。

 今年の花粉、杉はピークを越え、今は檜、とここまではよい。もうちょっとの辛抱だと思えた。が、それに続けておっしゃるには、

〜都心部で既に飛んだのは予測した量の116%。 ?! そしてさらに、

〜青梅市では予測量の187% ??!!!!

ということは、予測が全然予測になっていないということではないか。となれば、本当にもうすぐ終わりと思ってよいのか? この先わたしは、何を頼りに生きていけばよいのか?

 

でも、冷静に考えれば、終わりが近いのは確かだ。檜に弱い夫が苦しんでいるから。

例年どおりなら、彼が苦しみ始めれば、もうちょっとで終わるのだ。

 

早く終わってくれ。わたしゃ、布団が干したいんだ。乾燥機で我慢してきたけれど、やっぱりお天道様の恵みがほしい。

 

 

 

 

 

●4月2日(月)

 何だか分からないが、昨日から倉橋ヨエコさんの「春の歌」が、頭の中をぐるぐる流れている。

 

 ♪元気は出るまで出すな 元気は出るまで出すなって 自分にお手紙を書きました♪

  

 ♪元気はそろそろ出るよ 元気はそろそろ出るよって 自分にお手紙を出しました♪

 

 出るかな。出るといいな。

 

 

 

 

 

●4月5日(木)

宋遯初君、生誕136年。

 

 遯初君が殉じた民主主義ってなんだろうね。

 先日の『朝日新聞』別刷りが拾っていた、大学生のみなさんの声に驚いた。

 

二十歳になって初めて投票して「これが政治参加なんだと実感した。結果を見て、自分が多数派と分かったら、安心した」?!

 少数派については、「選挙で票をいちばん集めた政党が国の代表になる。民主主義とはそういうもの。それは受け入れなくてはいけないと思います」

 少数派の異議申し立てには、「そういう考えをする人の方が独善的だという気がします。私はたとえ、自分が納得のいかない結果でも受け入れます。ああ、今(の民意)はこれなんだ、と」 

 

 ちょっと、なに言ってるのか分かんない。

 民主主義って多数決のことだと思ってるんだ。

 そして、自分は常に多数派でありたいんだ。

 

 となると、自分が「これ」と思うことではなく、「みんながこれだと思うんだろうな」ということに投票することになる。

 人気投票で「1位になったものに投票した人には抽選で賞品を!」というとき、自分はCが好きだけど一般受けするのはAだろうな〜、とAに投票するようなことか。その結果、最もつまらないAが1位になる。

 

 多数派の安心というのも分からない。人気のある場所へ行き、人気のあるものを見て、人気のある物を食べる。それが安心。

 自らかえりみてなおければ、千万人と雖も吾征かん(孟子・公孫丑上)なんてのは、ばかなんだ。ばかどころか、エゴイストとして指弾してよいのか。

 

 だから、少数派は踏みにじってよい。そういうことにでもなるのか?

 

 ここでひとつ、思考実験をしてみよう。

 最大多数の最大幸福を追求すると、こんなことになる。100戸の村に100俵の年貢が課されたとする。1戸の生産量を10俵とする。

()1戸で1俵ずつ年貢を分担すると、税率は平等に1割になる。1戸の幸福度を、仮に90とする。

()しかし、特定の10戸に10俵ずつ年貢を分担させたならば、どうなるだろうか。残りの90戸の幸福度は100となる。

AとBとの幸福総量は、実は9000で変わらない。だが、幸福90が100戸あるよりも、幸福100が90戸あるほうが、「最大多数の最大幸福」追求という観点からすれば、よりかなっている。

 

 しかし、生産量の全てを年貢の供出に充てられた10戸は、餓死してしまう。

翌年はさらに10戸が滅ぶ。

 毎年こうした愚行を続けていると、村は10年で全滅してしまう。

 だから、最大多数の最大幸福を追求するときは、同時に最小数の最小不幸を考えなければ、逆に社会全体を不幸にしてしまいかねない。

 

 以上は、37年前に田舎の高校生が、倫理社会の時間にベンサムを聞かされて、口走った妄言ではあるが、今の「資本主義社会」というのは全くこんなものではないだろうか。

 

 多数派のためだけの幸福追求は、社会全体を害することがある。

 多数決は時に、数の暴力となる。

 ルソーは多数決を肯定してなどいない。全員一致で「是」としない限り、多数決原理を機能させてはいけないとさえ言っている。

 

 いいかい、お嬢ちゃん。多数決で所属集団が、不条理な死をあなたに要求しても、あなたはそれを粛々と受け入れるの? 毒杯をあおいだソクラテスのように。労働法でも黄犬契約は無効だとされているよ。

 人倫にもとる法律は、たとえそれが形式上どんなに適正であったとしても、あってはならないものなのだ。狂った主権が決定したことを認めるわけにはいかないのは、狂人が自殺する権利がないのと同じだ。愛する者が錯乱して井戸にとびこもうとしたとき、それをとめないのが仁者だろうか。

 

 「仁」とはすなわち、思いやりだ。相手のことを慮ることだ。自分がされたら嫌なことをせず、相手がして欲しいであろうことを察して、してあげる。

 日本語で言えば、「忖度」だ。

 

 いま巷間で言われる「忖度」の語は、確認できる初出である詩経では、悪巧みを察知できれば抑えることもできる……という文脈で使われている。西周末期の政治的な腐敗や混乱を嘆く、変雅といわれる詩の一つだ。

 でも、いま言われている「忖度」は、ドイツでは直訳すると「先回りの服従」というのだそうだ。伝統的にあるものだが、これこそがナチズムを後押しした心性だとして、戦後はいけないこととされているとか。

 思えばドイツは、後発国として「上からの近代化」をした、明治日本のお手本だ。明治憲法もドイツに倣ったもの。封建制を引きずった、似たような心性があったのだろうか。

「先回りの服従」、それこそが奴性、奴隷根性、奴隷道徳だ。

そして、辛亥志士たちも、奴性との戦いを掲げていた。

奴性、強者に阿る自己放棄は、民主主義の敵だ。

 

遯初君は袁世凱の独裁に反対して、命を落とした。彼は議会の力を強くし、大総統といえども議会の賛成がなければ何もできないようにして、袁を「虚君」にしようとした。「先知先覚・後知後覚・不知不覚」などという孫逸仙とも、相容れないわね。

 

いま日本を含めて世界では、「強いリーダー」を求める風が強まっているとか。

仁慈ある英邁な君主による独裁? それこそ奴隷の王国だ。英邁な君主に阿りながら、奴隷頭として下位の者に対してちっぽけな権力を振るう。それが理想なのか?

どんなにぐちゃぐちゃで右往左往しても、舟が山に登るようなことになっても、独裁よりは絶対によい。

そう、胸を張って言いたい。だって、わたしたちは奴隷ではないのだから。

 

 

 改めて読み直してみると、頭の悪い人の文章の典型だな〜。複数の問題が、ごっちゃに絡まっている。

 でも、わたしの頭がこの程度なのだから、今はこれが精一杯ということで、甘んじて恥をさらそうと思う。

 

 

 恥さらしついでに、もう一つだけ大きなことを言ってみようと思う。今のわたしたちは、宋遯初や楊篤生や陳星台に恥じないだけの「今」を生きているだろうか。ひとえに中国人ばかりでなく、我々日本人だって。

 

 

 

 

 

   

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