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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2018年3月 3日  11 20日 22 31日

 

●3月3日(土)

 2月はインフルエンザに罹ってしばらく寝付いたのち、本調子でないまま、なんとか社会復帰したところで、勤めが最大の繁忙期に突入。

と同時に、花粉だ〜。鼻は薬のおかげか大丈夫だが、目がかゆいのはかなわない。

 

早くこの時期が過ぎるといい。そうしたら、フクちゃんに会いに行くんだ。

もうだいぶ大きくなっただろうけれど。

 

 

 背中でTVが言っている。「習近平の帝政復活」……。皇帝になり損ねた袁世凱の画像が、ネット上から削除されているそうな。

 

熱狂的な支持者に「ツアーリ万歳!」と言われて、まんざらでもない顔をしていたという御仁もいるし。

 

 人類の歴史って、進んでいるのだろうか。

  

 

 

 

●3月6日(火)

 陳星台先生、生誕143年。

 お昼に東新訳社跡へ行き、お祝いをしてきた。

 星台先生には観世音が似合う。お父さんの宝卿公が、観音様のような人だったからか。

 と言うことで、観音経をあげてきた(偈だけだけれど)。

 

 先生、お国はまた、妙な感じが強くなってきています。独裁者の長期政権とは、どういうことでしょう……って、この国もひとのこと言えないか。

 なんか最近、気持ちが悪い。1930年代の人たちも、こんな気持ち悪さを感じていたのじゃあるまいか。

 あとになって、「あのときがカギだった」と言うようなことに、ならないといいのだけれど。

 

 

 

 

●3月11日(日)

 昨日は三月十日。夫の外祖父母、伯叔父の命日だ。七十四回忌になる。

 横網にある都の慰霊堂は未だに震災死と一緒という理不尽な状態。わたしたちは姑の意向で、上野の寛永寺さんへ。こちらには、海老名香葉子さんをはじめとする有志の方々が建立した慰霊碑がある。

 有志の方々の慰霊の集いが前日に催されたので、碑にはお花がたくさん手向けられていた。わたしたちはお線香をあげてから、夫がお花に水を注いだり、碑に水をかけたりしていた。するとおばあさんが一人、夫の様子をながめてから、わたしに話しかけてきた。

 

 浅草に住んでいたおじさんの一家が、空襲で亡くなったのだという。「だから三月十日になると、どうしてもここに来ちゃうんですよ」

ご自身は川口に住んでいて、あの夜、東京の方の空が真っ赤に燃えるのを見ていたと。まさかそこでおじさんたちが亡くなっているとは思わなかったと。みな亡くなり、「学童疎開していたいとこだけが生き残っちゃって」と言ってから、はっと失言にうろたえるような様子をされたので、夫が「生き残っちゃったんですよね」となだめるように言った。

「火垂るの墓」にもあるように、孤児の多くが辛酸をなめ、「なぜ、皆と一緒に死ななかったか」と思いながら生きてこられた。わたしたち自身も、姑の口からそう聞いている。

学童疎開が孤児を生むのは理の当然だ。けれども「国」は、その対策など何も考えていなかった。そしてそのまま73年。軍人・軍属には50兆円以上もの補償をしながら、民間人には一文も出さない、それがこの国だ。守るべき「国」とは「国体」であって、「国民」ではなかったということ。

 

 「そちらはお若いのにどうして」と問われ、夫は「母方の祖父母が深川に住んでいて」と事情を話した。両親が高齢になったので、代わりに来ていると。

 おばあさんと別れてから、しばらくお経をあげ、その場をあとにした。

 

 寛永寺さんにお詣りし、上野公園内を歩いて、湯島の駅から帰った。

 土曜日のこととて、上野公園はたいへんな人だった。外国からの観光客も多いようで、色々な人種、さまざまな言語がとびかっている。穏やかな天気で、みな、にこにこと。

 

 でも、わたしは涙が止まらなかった。何だか分からないのだが、慰霊碑の前にいたときからずっと、涙が流れっぱなしだ。花粉症でマスクをしているのを幸い、花粉の害を装って、涙を流し続けていた。

 今日が何の日か、知ってるかい。今日は3月11日の前日じゃないんだよ。3・11も大変だけれど、でも今日のことも知っていてほしい。今日、10万人が亡くなったんだよ。

 

 何日か前、夫が「ろうそくを立てたい」と言い出した。

10万本のろうそくを立てたい。ろうそくは、「命」を表現するのに格好だろう。それだけの数を立てるのに、どれだけの場所が要るのか分からない。寛永寺さんとか増上寺さんとかで足りるものか、見当もつかないが、どこか場所を借りて、やってみたい。

そうすれば、10万人が死ぬというのがどういうことなのか、少しは分かるかもしれない。今の人にも、分からせたいと。

きっと、叶わないだろうな。「国」は、東京大空襲を「無かった」ことにしたくてたまらないようだから。

 わたしたちはまだ、「近代」を生きている途中だ。

 

 

 

 

●3月20日(火)

 宋案発生から105年。

 1913年の今夜遅く、宋遯初君(30)は撃たれた。

 得意の絶頂。さあ、これから!というところで、さぞ無念だったろうと思うと、堪らなくなる。

 

 これを書いている後ろで、TVが言っている。「習近平新時代」だの、「軍に『習近平語録』が配布された」だの。

 袁世凱の独裁を阻もうとして撃たれた遯初君は、何を思うだろう。

 

 

 

 

●3月22日(木)

 宋漁父先生、没後105年。享年三十二。

 

 遯初君はあくまで独裁に反対だった。大統領制にするか、議院内閣制にするか、議論があったのだが、遯初君が唱えたのは後者だった。

 議会の力を強くすることによって、袁世凱を「虚君」にしようとしたのだ。袁がなにをしようとしても、議会が反対したらだめだということに。

 

 それで遯初君は袁に撃たれ、さらに第二革命も敗北してしまったわけだが、さすがに皇帝になろうという袁の企ては、第三革命で砕かれた。

 以後、あの国に皇帝は出ていない。今後も、出ないよね? それがせめてもの慰めだ。

 

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 現状を鑑みるといつも思うのだけれど、中国近代史は、どの時点から間違ってしまったのだろうか。どこまで溯れば「やり直せる」のだろうか。

 

 昨日、夫が目を醒ますと、「楊昌済があんたに伝えたいことがあるから、万難を排して来るようにって、誰かに言われた」と。「誰かって誰?」「知らない。たぶん、楊篤生じゃない?」

 久しぶりに東方書店のHPをのぞいたら、楊昌済先生の文集を見つけた。何かのヒントでも得られればと、とりあえず注文した。中国からの取り寄せだから日数がかかるだろうけれど、楽しみだ。

まずは日記から読んでみたい。

 

 

 

 

●3月31日(土)

 ムーンパレスの日。

 今年はすごい! 本物のムーンパレスの日だ。こんなの、滅多にない。

 「さよならばっかりの三月が終わる春の日に」

「窓の外を見たら満月が空を泳いでた」

 

「三月が終わる春の日」は毎年来るけれど、それが満月と重なるとは!

 

 ということで、歌いまくっておりました。

カスタネッツの名曲、「ムーンパレス」です。

 「地下鉄の中で君のことを夢に見た」っていうのが丸ノ内線方南町支線かと思うと、かつて使っていた身としては、うれしくてならない。ああ、愛しの3両編成!

 

 

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