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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2017年8月    

 

●8月4日(金)

 昨日、小石川橋の近くでツクツクホーシを聞いた。これが始まると、夏も後半戦。とはいえ、この夏はあまりに天気が変。梅雨入りしたら晴れ続きになり、梅雨明けしたらぐずぐず続き。予報官さんも予報士さんたちも、たいへんだろうな。

 

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 わたしの大好きな先生は、106年前の今日、夜汽車でアバディーンを発ち、リヴァプールへ向かう。

 

 

 

 

●8月5日(土)

 楊篤生踏海から106年。

 

 習近平が、「人民解放軍を世界一流の軍隊にするべく努力せねばならない」と言っている。

 

 星台先生が「獅子吼」で描いた近未来の中国は、堂々たる軍事大国であった。けれどもそれは共和国であり、星台先生は生涯最後の文章でも「自由・平等・博愛」を謳っている。

 それはブルジョア民主主義に過ぎない? ブルジョア民主主義って何? 以前にも書いたが、ジャン・ジャックの「平等」には経済的平等も含まれている。と言うか、それが政治的・社会的平等の基礎だと言ってもよいと思う。

 

 星台先生の描く中国は共和国だった。今の中国も「人民共和国」? 

 共和国なら、民主主義の国であるなら、当然ながら三大自由は保障されているはずだ。

 今の中国では、保障されていますか? 

 

 遯初君が大統領制ではなく責任内閣制を主張したのは、二千年来の帝政の国で一人に権を集めることによる、独裁化を警戒したからだろう。

 孫逸仙は逆に独裁を志向したしたようだけれど。

 

 そして篤生は、言うまでもなく「自由・平等・博愛」と三大自由の人だ。

 彼が今の中国を見たら、何て言うか。あの容赦のない口ぶりで、さんざんに罵るだろうな。

 

 

 

 

●8月22日(火)

 雨続きの夏。農家は大変だろう。お米も野菜も果物も。

もちろんわたしも困る。不作による高騰は、誰も得しない……よね?

1910年、水害等に因る飢饉に見舞われた長沙で米を買い占めた大郷紳は、米騒動で打ち壊しにあった。儒者なのに、飢饉で買い占め?

 

 

今日は雨こそ降らないが曇天だったので、日傘をささずに歩き始めたら、あっという間に汗みどろになってしまった。

都心の某公園で、遅いお昼にベンチで菓子パンを。

と、すぐに雀が一羽やって来て、後ろの柵に止まったり、足元をちょんちょんしたり、ベンチの背に止まったり。それを、ずっとわたしの目を見たままやっている。

「ごめんね。わたしはあなたに野鳥として敬意を払うから、ご飯はやれないの」と、何度か説諭したら、やっと飛び去った。改めて見れば、ベンチの背は糞で白く汚れている。

たぶんわたしがその気になれば、あの子はわたしの手に乗ったかもしれない。不忍池では、そうやってたくさんの雀にたかられている人を見る。

冬にはカモにも。「エサやり禁止」の貼り紙など、彼らには読めないのだ。

 

野鳥や野生動物への餌付けは、侮辱だと思う。彼らは自分で餌を見つけて生きているのであって、人間が介入する必要はないし、単に堕落させるだけだ。台風後の慰労とか大雪の際の緊急援助なら許さなくもないが、それ以外はだめ(許さないだけで、罰則どころか文句も言わないけれど)。カモは、太りすぎて渡りの支障になったり、太った上に人への警戒心をなくした結果、自転車と衝突して命を落としたものもいたとか。

 

だからね、ごはんはやれないんだ。じっと見られて、さすがに心が揺れたけど、結局はことわった。ごめんね。達者で暮らしてね。

 

 

 

 

●8月26日(土)

 今の都知事様は、天災である震災死と、明確な犯罪である虐殺との、区別がつかないらしい。震災死としてまとめて悼むから、それでいいんだってさ。

 

 さすが東京都。未だに横網の震災の慰霊堂に、空襲被害者も一緒にしているだけのことはある。

 戦災死は戦死とは違い、単なる殃死=不慮の災難による死に過ぎないというのが、国の立場だそうだ。

 だから天災と一緒なの? そんなのあり?

 

 

 

 

 

 

 

   

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