日記表紙へ

 

多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2017年3月 6日 10日 20日 22日

 

●3月6日(月)

 陳星台先生、生誕142年。

 昼は用事があるので、朝、水道橋で降りて旧・西小川町の東新訳社跡へ。

 そんな時間なのに、千代田区立西神田公園には案外多くの人がいて、煙草を吸っていた。禁煙の職場が多いのだろうけれど、何か異様な光景だ。

 

 そんな人たちから離れた所に立ち、例によって「大地沈淪幾百秋」とつぶやく。

 中国の国防費は今年も増えて、10年間で3倍とか。先生が「獅子吼」で描いた軍事大国は、こんなものだったっけ?

 

 

 

 

 

●3月10日(金)

 東京大空襲から72年。

 

 半年ほど前になるか、古書店で花袋の『東京震災記』なる文庫本を発見した。引っ越し以来、本はなるべく買わないことにしているのだが、200円と安かったし、何か気になったので購入した。

 そこで縷々綴られる光景は、どうしても空襲のそれとダブる。東京では古い建物を紹介するときに、決まり文句のように「震災も戦災も生き延びた」という感じのことが言われるが、確かにそういう重なるところがある。

 もちろん震災と戦災とは決定的に違う。都が未だに横網の震災慰霊堂に空襲被害者を一緒にしているのは、神経を疑う(戦災のを建てようとすると、戦争の解釈をめぐって政治的にもめるからと説明されているが)。

 けれども、現出した光景自体は似ているのか。下町を中心とする焼け野原という。

 

 恐ろしいことに、この本の終わりのほうで花袋は、こんなことを書いている。震災後に遷都論があったようで、東京は畑や野原になった姿を空想する会話のあとで、

「二人の頭には、期せずして、外からやって来る敵のことが浮かんで来ていた。海からやって来る強敵は、この都ではとても完全に拒(ふせ)げそうには思えなかった。

『そうだってね? 飛行機でもやって来る段になると、とてもこの地震の比ではないそうだね? この東京などは、一度で滅茶々々になってしまうってね?』(中略)

 こう言って私はそのいやな話を打ち切ってしまった。それにもかかわらず、太平洋中の飛行母艦から爆弾を載せた恐ろしい飛行機が何隻となく飛んでくるさまがはっきりと私の眼に映って見えた。ロンドンやパリでさえあのような驚愕を来したのであるから、その時は私達はとてもじっとして此処に留まっていることは出来ないに相違なかった。私は満都の人達が関東平野を繞る山の中へと慌てて遁走して行くさまを想像した」

 この本が出たのは1924年。花袋が没したのは1930年で、まだ日中戦争も起きていない。

第一次大戦では飛行機が使われ、爆撃も行われ始めたようだから、そういう報道を受けてのものではあろう。けれども、目の前の震災による焼け野原と、新聞で知った(ラジオ放送は25年から)欧州大戦の様相とを繋ぎ合わせて感じ取る、作家の感覚の鋭さに驚嘆する。震災以上の惨事となることまで、予見しているのだ。

 

東京の空襲は3月10日だけではないし、もちろん東京だけでもない。全国でどれだけの戦災死傷者、戦災孤児が生じたのか。

そしてこの国は、軍人・軍属には50兆円以上払いながら、民間の被害者には一文も払っていない。そういう国だ。

 

 

 

 

 

●3月20日(月)

 今年もこの日が来てしまった。

 宋教仁事件から104年。1913年の今夜遅く、上海駅で撃たれる。

 もちろん、星台先生の12月8日も楊篤生の8月5日も辛いけれど、自死であった彼らと違い、遯初君の場合は得意の絶頂で意欲満々だったから、傷ましさの質が違う。

 まだ30歳だったんだね。かわいそうに。

 この事件がなかったら、暗殺が未遂に終わっていたら、歴史は違っていたはずだ……よね。袁世凱よりうまく、少なくとも違った形で、あの難しい局面局面を進んで行けたはず。

 

 

 3月は新しい命の弾ける季節なのに、なぜか、10日、11日、22日と、「死」を思わせられる日が多い。

 と思ったら、地下鉄サリン事件も今日なのか。

 あの日は、わたしの職場に近い駿河台日大病院にもたくさんの人が搬送されて、たまたま病院に行っていた人が戻ってきて「なにかあったようだ」と言うので、テレビをつけて驚いたのを覚えている。

 

 

 

 関係ないけれど、多摩センターの三越が今日で閉店。残る店と残らない店とがあるようだが、残る店も便乗みたいにセールをやっていた。

 TVなどの報道は同日に閉店した千葉ばかりで、多摩センはおまけみたいだった。3フロアしかなく、これがデパート?という超小型店だが、それでも多摩ニュータウンにとっては大事件なんだ。

 多摩ニュータウンはどうなっていて、どうなっていくのか。

最初に「入植」した人たちの高齢化と、その子や孫の世代の流出(都心回帰)が問題化しているとか。その一方で、今も空き地がどんどん巨大マンションや戸建ての団地に化けているが、それらのマンションも簡単には完売しないようだ。

 どんなものなんでしょうね。

 

 

 

 

 

●3月22日(水)

 宋漁父先生、没後104年。行年三十二。満31歳の誕生日の1週間前だった。

 もしも友人たちの警告を容れて、汽車ではなく船で行っていたら、こんな目には遭わなかった? どうも、そうは思えない。3月20日ではなく別の日になっていただけではないだろうか。本人、分かっているわけはないのに、不吉な発言をしているし。

 

 ただただ、悲しい。いたましくてならない。

 

 

 

 

 

 

  

日記表紙へ