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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2016年12月     16 31

 

●12月2日(金)

 三日の月とヴィーナスちゃんとが、ほどよい感じで仲良くしている。

 

 

 

 

●12月7日(水)

清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ(『東京朝日新聞』1905年12月7日 文中強調はゆり子)

 

今日の西神田公園は寒かった。人影もまばらで、なんだか切なかった。静かに卓に向かって筆を走らせる、星台先生を思った。

 

一つの国民をひっくるめて「放縦卑劣」と決めつける、それこそ放縦卑劣な物言いは、残念ながら今の日本にも見受けられる。それも、なんだかひどくなっているような。

どうなっているんだろう。うそ寒い気がする。

 

 

 

 

●12月8日(木)

 陳星台先生没後111年。

 旧・西小川町の東新訳社跡である西神田公園は、昨日ほどではないけれど、それでも今日も寒かった。

 12月だもの、寒いのは当然だ。あの日も寒かっただろう。そんな日に、遠浅の海に入るなんて……。

 

 先日、改めて「獅子吼」を読んでみた(島田虔次『中国革命の先駆者たち』筑摩叢書1965年)。『民報』に連載されていたが、彼の踏海によって未完となっている、近未来小説だ。

 

 ここに描かれている中国は、堂々たる軍事大国だ。物語の時点は「光復五十年」。島田虔次先生は訳文のあとがきで「つい三年まえ、一九六一年、つまり中華人民共和国の第十三年が、じっさいの辛亥革命(一九一一年、その翌年が民国元年)の五十周年であった。」と書かれている。「光復」を満清からの脱却と考えれば、そうなる。

けれども、新中国が建国された1949年と考えれば1999年となる。

 

1999年というと、改革開放政策で経済成長を続け、中国がBRICsと呼ばれる新興国の一角になっていくところだ。香港が返還されたのが2年前の97年。北京や上海の高層建築を、わたしもテレビで見たような記憶がある。

 

現代史には疎いので知ったかぶりはしないが、近代化された軍事パレードを、やはりテレビで見かけるようになったのもこの頃のことだろうか。

「自由」を戦車で踏みにじって断行された「改革開放経済政策」の成果だと言ったら、過ぎるだろうか。

 

陳星台の『獅子吼』の中で彼は、未来世界の年間統計に言及し、国庫の歳出・歳入、学校・学生の数、軍艦や兵員などの軍備、郵便局、鉄道・鉄路などについても詳細に想定している。

 

1999年の中国の統計年鑑との比較はしないが、星台の関心の在処が、経済活動や民生まで及んでいたことは疑いあるまい。ことに教育に関して、彼の関心は高かったようだ。

そうしたこともあってか、『獅子吼』という物語は、舟山という島の「民権村」での、教育を巡る話となっていく。

人物が類型的で魅力がないのは仕方ないが、文明種先生の「モデル」は誰だったのだろう。星台が最初に新学を学んだ新化実学堂、あるいは学んだかもしれない湖南時務学堂の空気を反映しているのだろうか、などという「雑念」の方が多くて、純粋に味わうことは正直できなかった。

もっと言えば、島田先生のご苦労はどれほどものだったろうとも。きっと、かなり「冒険」をされているはずだ。

 

それはともかく、陳星台の描いた未来は(梁啓超のも同じだろうが)、今やおおよそ実現された。中国は軍事大国として、言い換えれば時代錯誤にも「列強」の仲間入りをしようとしている。

 

 今、彼の国に求められているのは、無敵の軍事力を背景にした、横暴極まりない「アメリカの後釜」だろうか。

 春秋左氏伝の「覇者」は、力を背景にしながらも、弱小の国の庇護者・争いの調停者であり、貪らず、奢らず、奪うのではなく与えることによって権力を獲得していく存在である。周王室の庇護者であると同時に、「礼」の護持者であることが望まれた。

実態は必ずしもそうではなかったが故に、しばしば歴代の「覇者」は、賢者によってそう戒められていく。

 

どこで道を間違えてしまったのだろうか。国民党ならばよかったとか、文革がいけなかったとか、色々と言う人はいるだろう。辛亥前夜以外は無知なわたしには、云云する資格もない話だ。

 

けれどもこれだけは、はっきりと言える。

中国人は、陳星台だけを右の手にとって、左手の楊篤生を捨て去ってしまった。篤生の「貴我」、すなわち個人の自由と尊厳とを、「国家」の繁栄の前に後回しにしてしまったのだ。

 

『獅子吼』の中でいみじくも述べているように、最晩年の陳星台は「国家主義」に傾いてしまっている。それはわが国のように「万世一系の天皇」なる、こっ恥ずかしい迷妄の体系ではなく、「国家の安定のためならば、人民は、皇帝や役人を殺して改めて政府を樹立する権利がある」というような意味での「国家主義」である。

 

星台は、国家と「主権」とを切り離せなかったのだ。国家など無くても、主権は存在しうる。全ての人々の願い・思いこそが、今は未だ無い・けれども必ず到来すべき新たな国家の「一般意志」であり、すなわち「主権」なのだから。

 

陳星台と楊篤生。双翼を欠いてしまった辛亥革命は、思想的には始まる前に終わっていた。

 

そんなことを言ったら、宋遯初君に失礼かな。

 

 

 

 

●12月11日(日)

 公園でモズを見た。何かをくわえて飛んできて、木の梢にとまった。そして頭を数回上下に振ったと思うと飛び去ったのだが、そのときには何もくわえていなかった。

 これが話に聞くはやにえか。初めて見た。

 

 公園のボス猫・茶トラ(別名くつしたちゃん)が姿を消して1年半。きれいで物怖じしない子だったから、誰かに拾われたのだろう。

いつも一緒にいたまだら猫(あまりにたくさんの色が交じっていて、何とも呼び難い)は時折見かけるが、いつも寂しそうに見えた。元々まだら猫は警戒心が強く、わたしたちが立ち止まると急いで逃げてしまい、くつしたちゃんだけが残って、変わらずのうのうとしているのが常だった。けれども1匹になってからは、逃げることなくこちらとにらめっこしてくれるようになった。

 

 その公園に変化が起きた。ここのところ二、三度見かけていたキジトラが、今日は茶トラの特等席だった場所で、のうのうと寝ていた。

 このまま居つくのだろうか。この公園には猫おばさんが何組か来るし、冬には陽だまり、夏には木陰があり、水もあって、住むには良いところだと思う。

 定着するといいな。まだら猫と一緒にいるところは、まだ見たことがないけれど、仲良くやってくれるといいな。

 わたしは猫は苦手で、生まれてこの方、触ったことは一度か二度しかないが、野良ちゃんはかわいいと思う。

 切なくって。

 

 

 

 

●12月16日(金)

 劉道一君の命日が近い。楊篤生が道一君の追悼詩を書いているので、見てみた。もとより訳す気はないが、大体どんなことが書いてあるのかな、と。

 「祭劉君道一文」。

 で、驚いた。字面が派手!

 わたしの持っているテキストは簡体字で組んであるのだが、それでも分かる、きらびやかさ。難しい字ばかり、並べてある。

 なるほどこの人は、駢文を得意とする人だった。于右任が書いていたっけ、宣伝用の平易な口語文で知られているが、見事な駢文を書く人だった……と。

 「英国工党」を訳していて、あまりの難しさに自分の無知無学を棚に上げて、「どこが平易なんだ!」とさんざん毒づいてきたが、それでもあれは「平易」だったのか。タガを外して好きにさせると、こんな恐ろしいものを書くのか。

 

 そういう人なんだ。きらびやかな才のある人なんだ。変法運動にかまけていなければ、進士にだって、なっていたかもしれない(進士説もあるが、わたしは採らない)。

 

 

 

 

●12月31日(土)

 劉道一先生、没後110年。満22歳だった。

 安否に関する情報が錯綜し、一喜一憂した末に刑死が確実となる経緯と、劉揆一の嘆きとは、宋遯初君の日記に詳しい。

 お父さんが病気だってことで、帰国したんだよね。揆一は危険ということで、道一だけ。で、オルグに歩いているときに萍瀏醴起義に巻き込まれ、逮捕。はじめは劉揆一と間違えられ、道一君自身、「劉揆一として死ぬ!」と言っていたとか。結局は弟と分かり、劉道一として処刑されたのだけれど。

 そんな訳で、揆一としては身代わりにしてしまった感があったのだろう。深い嘆きも理解できる。

 その後お父さんは間もなく亡くなっているから、病気というのは本当だったのだろう。

 そして道一君の夫人は後追い自殺を図って、その場はたすけられたものの、数年後に自死している。

 こういう若い人たちの死は、辛い。烈士烈婦として称えられても、いたましさが減ずるわけではない。

 

 

  

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