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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2016年10月 8日 10日 13日 17日 23日 29日

 

10月8日(土)

 「英国工党」、「ざっと訳」は20節まで終わった。まだまだ日本語としておかしいので、もう少し詰めねばならない。

 工党って、労働党なんだよね。なにか、不思議な気がする。

 

 朝、玄関を開けたら開放廊下にアオカナブンがいた。もう1週間も前に滅びたと思っていたのに。

 その後、吹きつける雨に濡れていたが、雨が上がってから見たら、脚を動かしていた。

 しぶとい。

 

 

 

 

 

10月10日(月)

 双十節。武昌起義から105年。

 先日、TVの報道番組で、東南アジア等に政治亡命している中国人のことをやっていた。タイに多数いたのだが、中泰両国政府の接近により危険になっていて、国連から難民認定を受けているのに強制送還された人もいるとか。

 先生、御国はどうなっているのでしょうか。「人民共和国」ではないのでしょうか。

 先生の書かれたものを、御国の方々が読まれたら、どう思うでしょう。

 

 先生の親友・楊昌済先生は、先生の叔祖(大叔父、二世代上)にあたる。その娘婿が毛潤之ということは、あれは先生の叔母婿がつくった国なのか。

 両先生、どうにかなりませんかね。

 

 もっとも、この島国も、兆民先生が見たら「100年以上経って、これ?」と呆れられそうだけれども。

 なんだか、時間を巻き戻そうとしている奴らもいるし。

 

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 先生が病に苦しみながら書いた「英国工党」、第20節の「第三義諦」までは、なんとか形になった。このあと第四義諦、第五義諦ができれば、短い第21節と第22節とで終わり。第22節は歌なのだけれど、わたしの力じゃ散文にしかならないだろうな。

 ともあれ、終わりが見えてきた。始めたときは、とても終わるとは思えなかったが。

 

 

 

朝見たら、アオカナブンはいなくなっていた。

 

 

 

 

 

10月13日(木)

 楊徳鄰先生、没後103年。

 『武昌革命真史』に言わせれば「専ら殺人を以て袁世凱に媚びる」という湯薌銘によって、捕らえられ銃殺される。篤生より二歳上の1870年生まれだから、数えで四十四歳か。

 

 篤生があと2ヵ月ちょっと我慢できていればと、いつも思うけれども、徳鄰がこういうことになっているということは、篤生も結局は長生きできなかったのではなかろうか。

 譚瀏陽先生や黃興さんや遯初君のように武術を習ってはいないと思うし、そういうタイプではないと思うが、安全な所で安閑としていられる人ではないから。

 

 

 

 

 

10月17日(月)

 土曜だったか、朝、新聞を取りに行こうと表へ出たら、目の前にすばるがいたので、驚いた。

 日の出が遅くなってから、ずっと天候不順で、朝に星を見ることなどなかったのだな。

 

 

 英国工党、21節まで終わった。あとは最後の歌だけ。

 本当に、終わるのだろうか。何年かかったのだろう。

 難しくて難しくて、とても終わるとは思えなかった。

 

 改めて、篤生のすごさを思う。とんでもない人だ。時代から、飛び出ているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

10月23日(日)

 工党、本当に終わったのか。

 長かった。調べたら、まる3年になる。と言っても、ずっとみちみちやっていたのではなく、放置していた期間も少なくない。それでも、そういう時にも頭の隅に「工党」の2字があって、後ろめたく思っていたわけで。

 

 改めて頭から読み返して、篤生という人は本当に傑出した人だったのだと、感じ入る。訳文が拙すぎて申し訳ないが。

 楊篤生は、新湖南、テロリズム、だけではない。その晩年の到達点が知られていないのが、残念でならない。

 

 あとは訳者として跋文を書きたいのだけれど、少し時間がかかるかもしれない。

 

 

 

 

 

10月29日(土)

 今日は昼から図書館へ。およそ集中力というものがないので、家ではものが読めないから、わざわざ電車に乗らねばならない。

 駅まで行く途中、公園を抜けて行くと、立木の梢でなにか騒いでいる。見ると、シジュウカラ。なんだ、と思ったが同じ木にもう一羽。褐色の体に白いポチが一つ。ジョウビタキのお嬢さんだ! 今季初! そう言えば、先週から市ヶ谷のお濠に鴨がいるのを電車から見た。

冬鳥のみなさん、こんにちは。

 

 まだコウモリが飛んでいるし、アメンボもツイツイしているけれど、彼らももうじきにいなくなるのだろう。

 

 

 

 

 

10月31日(月)

 今日は月暦十月朔。

 楊篤生生誕、144年。「同治壬申十月」というだけで、誕生日が分からないので、仕方ない。

 ともあれ、めでたい。この希有な魂が生まれてくれたことは、歴史に何らかの形で資することになっている。英国からの通信がどの程度読まれ理解されたか分からないけれど、『新湖南』はかなり読まれて影響もあった。

 わたしは渡英後の彼が好きだけれど、『新湖南』もすごい。単なる排満ではなく、民族自決だもの。

 

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 132年前の今日、秩父事件始まる。

 

 

 

 

 

 

  

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