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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2016年8月 4日 5日 9日 31日
●8月4日(木)
今日、夜汽車でアバディーンを発つ。
8月4日の夜、楊篤生はアバディーンを発って、終焉の地リヴァプールへと向かった。
知る人も無い夜汽車の中で楊篤生は、何を考えたことだろうか。踏海を決意させたものは、一体何であったのだろう。
肉体的な苦痛は、案外大きかったのではないかと思われる。昔、爆弾を製造して誤爆させた時の傷が悪化して、絶え間のない頭痛に悩まされていたという話がある。真偽の程は、定かではないが。
しかし、一番大きかったのはやはり、頓挫し停滞していた革命運動への絶望ではなかったろうか。殊に孫文への失望。
なぜだか今は「革命の父」として崇められているが、辛亥前夜の留日革命家の間で、彼の評価がそこまで高かったとは思えない。
1905年12月に既に踏海した陳星台も、彼に一時希望を寄せ、その後激しく絶望したように私は理解している。
別に孫文に恨みがある訳ではない。ただ、湖南派の目を借りた時に立ち上がってくる像を、素直に言葉にするとしたら、「虚妄の人」だろうか。
大風呂敷を広げて、スポンサーを捉まえてくるのが上手な「革命家」。しかし集めた大金は、全部自分のために使い果たしてしまうような人でもあった。やたらと威張り散らしては黃興さんと怒鳴り合いの喧嘩をしたり、およそ人格高尚とは言い難い。
「先知先覚、後知後覚、無知無覚」などという言葉を聞くと、「あんたは一体、どこに立っているんだ。もしかするとその『先知先覚』とやらは、あんた一人なんじゃないのか?」と突っ込みたくもなる。
「無知無覚」の大衆を啓蒙して引っ張り上げ、「変革の主体」たる「中堅」に育てようというのが、楊篤生の思想であったから。
話が逸れた。夜汽車に戻ろう。
当時の夜汽車がボックスシートであったかどうか、私は無知にして知らない。だがまあ、仮にそうであったとして、私はそこに、陳星台がずっと同席していたように思われて仕方ない。
楊篤生はずっと、星台と問答をしていたのだと思われる。革命のこと、故国のこと、今学びつつあるアナキズムのこと。そしてリヴァプールで為そうとしているある決意について。
星台先生は、もちろんそれを止めたのだと思う。
「そんな早まったことをしてはならない。あなたは、これからの我が国にとって、革命にとって、なくてはならない大切な人材なのです」
しかし篤生は反論したに違いない。
「ならば何故、君は踏海したのだ? 君を失った我々が、どれだけ苦しみ悲しんだと思うのだ? 君こそ、なくてはならない大切な人材だったのだぞ」
おそらく星台は、莞爾と笑って消えていったことであろう。
眠れない夜の内に、物思いは堂々巡りし、いつしかまた問答となって、同じ結末を繰り返したことであろう。
そして篤生は、朝を迎える。
●8月5日(金)
リヴァプールに着いたのは、何時頃であったろうか。詳細には分からないが、たいていの夜汽車がそうであるように、朝の八時頃ではないだろうか。
二通の遺書を認めた場所は、駅舎の中であろうか。曹亜伯の『武昌革命真史』によれば、楊篤生は遺書を赤インクで書いて、弟と呉稚暉とのもとに送ったことになっている。
所持金を為替に変えて送ったりしているから、開いたばかりの郵便局か銀行にでも行ったと思われる。いわゆる「身辺整理」をしていたことになるわけで、覚悟の程が窺われる。
彼の死後、孫文から呉へ出した書簡が、『孫中山全集』にある。それによると、篤生が革命のために貯めていた金を黃興に送るよう遺言していたようで、孫は呉に、黃興が革命軍を立て直すために資金を必要としているので、その金を香港の某々へ送ってくれと依頼している。
ところが一方、黃興が後年に書いているところによると、その金は黃興に渡っていない。
本当にそのお金は、どこへ行ってしまったんでしょうね。人格高尚なる「革命の父」が、まさかネコババしたとは思いたくないが。
全ての用が済んでしまうと、彼は一体どうしただろう。
1911年のリヴァプールの交通が、いかなるものか、わたしは知らない。先述の『武昌革命真史』によれば、どうやら電車に乗って移動したようだ。十余マイルというと、だいたい20キロくらいだろうか。
グーグルマップを参照すると、昨年目星をつけたフォートパーチロックという場所が、ちょうどそのくらいの距離にある。
マンチェスターから流れてくるリバーマージーは、河口で奥行きのある湾となって、海と川とを繋いでいる。
リヴァプールはその東岸に位置し、フォートパーチロックは、西岸の突端に当たる。
グーグルマップの写真によれば、行き交う船のための灯台があり、夕日に海がきらめいている。
地図上をさらに西に行くと、キングスパレードという名の海辺の遊歩道がある。105年前には整備されていなかったかもしれないけれど、海外線が広がっていたことは疑いない。写真では砂浜のように見える。当然、踏海には適さない。
わたしは、篤生がずっと踏海する場所を求めてさまよっていたように思える。道々ずっと、陳星台と対話を繰り返していたのではあるまいか。
陳星台は日本の大森海岸という遠浅の砂浜を、自らの意志で進んで溺死した。水も冷たい12月8日のことである。繊細で虚弱な楊篤生に同じ真似を強いるのは、あまりに酷であろう。
星台先生は、きっと楊篤生を止め続けていたのだろう。「遺書を送ってしまった後にとり止めたからといって、恥じることはない。『厭世派の抜刀自刎投江自殺は責任放棄で人道を損なうものだ』と書いたのは、あなたではなかったのか」と。
ある時は公園に迷い込み、無邪気に遊ぶ子どもを微笑みをもって眺めたかもしれない。あるいは駅前の雑踏に戻って食事でもしてもようかと、試みたかもしれない。
しかし彼は結局、走り行く電車を見送って、灯台の下に引き返したのだろう。
無論これはわたしの想像であり、いくつかの事実から組み立てた「創作」であることをお断りしておく。
夕照の伸びる海の先に輝いているのは、極楽浄土などではなく、ただのマン島の影に過ぎない。そんなことは楊篤生も、百も承知であっただろう。
アナキズムを学ぶ中で彼の胸に蘇ったのは、間違いなく若かりし頃に傾倒した、中国仏教に違いない。華厳世界であったか極楽浄土であったかは、定かではないが。
全てのものが美しく優しく、邪悪なものの欠片も存在し得ない、完成された世界。それは現実の世界で叶えるためには何世紀もの時間が必要だが、現身(うつしみ)を捨てて思惟だけの存在になってしまえば、あっという間に到達してしまえる場所だ。少なくとも、浄土教系ではそう教えている。
平たい石を投げて水切りをするように、夕日に向かって思惟を飛ばせば、常に沈みゆく太陽を越えて、一気に極楽世界へと到達できる。
そんな風に、楊篤生は考えたのかも知れない。
8月5日になると、楊篤生は永遠にリヴァプールの海に踏海し続ける。
●8月6日(土)
八月六日。
陽がようやく傾いた夕方、暑中見舞いの絵はがきを買いに出た駅前で、署名に応じた。
核兵器廃絶と、被爆者援護法改正と。
用紙を持った若いお嬢さんに、「被爆者もだけれど、本当は一般の戦災被害者にも必要なんですよね」と言うと、「そうですね」と応えてくれた。
●8月9日(火)
八月九日。けれども今年も黙祷できなかった。11:02では勤務中で無理だ。
6日の8時15分も、今年はたまたま土曜日だからできたけれど、例年だと電車の中で、これも無理。
本当は、日本中でサイレンを鳴らすべきではないのだろうか。
そしてこの日は、月暦七月七日、七夕でもあった。
月並みだけれど、万葉集から柿本人麻呂のこの歌を。
天の海に雲の波立ち月の船 星の林にこぎ隠る見ゆ
●8月31日(水)
うちの居間のカレンダーは、暦の情報量が多いのだが、おまけに「今月の星座」なるものまで書いてある。
今月は、いるか座だった!
7月が終わってめくり、これを見て狂喜した。いるか座だよ、いるか座! あの、大スターだ。
わたしのひねくれたマイナー好みゆえではない。いるか座は、我が天文部の人気星座だったのだ。
夏の大三角の、デネブとアルタイルとを結んだ線のちょっと外に、小さくまとまった菱形。その見つけやすさと、愛らしさとが、人気の理由だと思う。
だいたいわたしは、こういう星座、小さくまとまって見つけやすいものが好きだ。さんかく座とか、うさぎ座の耳とか。
さんかく座なんかは、魅力を力説しても白い目で見られてしまうが、いるかについては孤独ではなかった。
……と記憶しているのだけれど、書いていて不安になってきた。
ひょっとして、勝手に記憶を作りかえていないかと。
でも、このカレンダーを作った人も、きっといるか座が好きなんだ。そうでなければ、こんな小さな星座をとりあげるわけがない。黄道十二星座以外にも、はくちょうとかこととか、いろいろあるのに、なぜわざわざいるかを?
でも、いるか座ともお別れ。9月の星座は、やぎ座。あの、びろ〜んとだらしなく広がった三角形の。
これはこれで、味があるけどね。秋ならそれこそ、さんかく座がよかったな。
明日は月暦八月朔日。陽暦のと同時にめくることは、たま〜にあるかな。と思ったら、月暦九月朔日も、陽暦10月1日と重なっている。
揃っちゃったのか。
締めに、もう一つ万葉集から。七夕に銀河を渡る月の舟を歌ったものは、幾首もあるのね。
しばしばも相見ぬ君を天の河 舟出早せよ夜の深けぬ間に