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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2015年12月 1日 6日 7日 8日 9日 14日 15日 31

 

●12月1日(火)

 12月。今年は7日も8日も平日なので、ありがたい。

 

 今日は久しぶりに明神様と天神様と両方にお参りした。もちろん続いて不忍池へ。ユリカモメがさわいでいたが、鴨は少ない。オナガとキンクロくらい。マガモもいたか。あとは、バンが一羽。池の沖(というのか? 岸から離れたところ)のほうに何か白い物が見え、枯れ蓮の茎に布でもひっかかっているのかと思ったら、動いた。サギだった。ここでサギを見ることはあまりないので、だまされた。

 

 帰りに天神様近くの路地で、2匹の黒猫ににらまれた。猫は苦手だ、にらむから。

 

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 アダム・スミスが書いていた。宝くじを全券買い占めた人は、必ず損をすると。

 商売なのだから当然だが、ちょっと考えてみて、そら恐ろしくなった。6億円と言っているけれど、それだけの金額を出すためには、どれだけの券が買われているのだろう。わたしは買ったことないし、これからも買うことはないから、1枚いくらかも知らないのだけれど。どれだけの数の人が、どれだけの金額を、そこに賭けているのか。

 もし大当たりしてしまったら、その賞金には外れた券の分の念が乗っかっているわけで。これは相当に恐ろしいことではないか?

 

 先日、スーパーの福引きで1等1000円の買い物券が当たった。当然うれしかったが、通常の買い物で簡単に使ってしまった。これはまあ、そういうものだ。

 

 もう期限は終わったが、市のプレミアム商品券なるものもあった。1000円お得になるということで、はじめは1000円くらいのために買いに行ったり、期限以内に使ったりするのは面倒だと思ったが、税金から出ていると思い当たって、なら買わなきゃ損だと思い直した。

で、郵便局に買いに行ったところ、隅に机がぽつんと置かれ、係りの人が一人、暇そうに座っていた。人気がないのだなと思った。

ところがその後、買った人がお得感を吹聴でもしたのか、売れ残り分の第2次販売は大行列で、買えない人も多かったそうだ。

けれど、結局は1000円だ。このお金で、普段は買わない物を買おう! という金額ではない。単にお財布から出る現金が1000円減っただけで、とても消費喚起になったとは思えない。お年寄りや子どものいる家庭は1000円ではなかったと思うから、そういうところでは有意だったのだろうか?

なにか、釈然としない。

 

 

 

 

 

●12月6日(日)

 12月6日。星台先生にとって、最後の「普通の日」。この日の晩餐の相手が宮崎寅蔵というのも、どういう巡りあわせなのか。

 

 

 

 

 

●12月7日(月)

清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ(『東京朝日新聞』1905年12月7日 文中強調はゆり子)

 

今朝、お月様とヴィーナスちゃんとが仲良くしていた。

1905年の今日、12月7日木曜日は、月暦では十一月十一日になる。ということは、夜半過ぎには沈んでしまったわけか。どのみち、この日は天気が悪かったように思われるが。

星台先生は、今日は一日、書き物をして過ごした。書き物……絶命書と、大好きな優しい宝卿公の小伝と。

そして、どんな思いで今夜を過ごしたのだろう。

 

 

 

 

 

●12月8日(火)

 寒い日だった。今年は暖かい日が多かったのでコートの選択を誤り、念のための用心にかばんに入れていた襟巻きに救われた。

 旧・西小川町の西神田公園は、なぜか半分かた喫煙所になっていて、たくさんの男の人たちがたたずんでいた。それを避けて隅っこに突っ立って、「大地沈淪幾百秋……」を三回もごもごとつぶやいた。

 寒かった。110年前は、どれほど寒かったか。こんな日に、海へ?!

 すぐ近くの、「周恩来ここに学ぶ」の碑のある愛全公園の前を通ったら、ここもまた喫煙所になっていた。いったい何のつもりなのか。線香の代わりだろうか。

 

 

 父親の仕事場があった関係で、ものごころついた頃からお茶の水という街には馴染みがあった。七五三も神田明神だった。だから遅くとも45年前には、その土を踏んでいたことになる。

 本格的に日参するようになったのは、大学3年生のとき、二十歳の頃からで、30年前だ。今の「白い巨塔」と違って、街中のそこかしこに汚い校舎が散らばっていて、どこか戦後の臭いがしていた。でもなんだか「大学の校舎」という感じがすごくして、嫌いではなかった。

 神保町の古本屋街も、すっかり様変わりしてしまった。巌松堂はなくなったし、小宮山はすっかりおしゃれなギャラリーみたいになってしまった。海風はなくなって、燎原は移転した。文庫川村も本がずいぶん減った。内山や東方は健在だが、中華書店はなくなってしまった。

 古書店街から白山通りを300メートルほど北上して左に折れると、東新訳館のあった西神田公園だ。ここに星台先生は、同郷の友人たちとともに暮らしていた。家を一軒借りての共同生活なのか、二階建ての下宿屋のようなものだったのか、そんなこともわたしは知らない。駿河台の留学生会館は、二階建てだったと思うけれど。

 1905年当時、陳星台先生は毎日なにをしていただろうか。長沙起義失敗後に再来日してからは法政大学に亡命留学していたが、毎日熱心に授業に出ていたとはあまり思われない。図書館に通っていたことは間違いないだろうが、そのほかにどこで何をしていただろうか。

 これは全くわたしの推測なのだが、歩いて数百メートルの本屋街に通ってひやかした後、神保町の小中華街で時間をつぶしていたのではないだろうか。沈滞した革命運動の現状を嘆きつつ、店の片隅で少しばかりの料理とお酒とを前に、仲間たちの談論風発を一人黙って聞いていたような気がする。少なくともわたしには、酔ってくだを巻く陳星台は想像できない。そんな人だったら、あんな死に方はしなかっただろうと思う。

 

 わたしの通勤経路には皀角坂(さいかちざか)があって、登り切ったところに清国留学生会館があった。『游学訳篇』の発行所はここになっていたし、留学生たちの溜まり場になっていたことは間違いない。星台先生もきっと、毎日のようにここに来ていたことだろう。

 

 今は皀角坂からは、神田川をほとんど見ることができない。けれども1905年当時、留学生会館の窓からはきっと、その流れが見えたことだろう。今と変わらないとすれば、川幅は20メートルもあるだろうか。江戸の儒者は「小赤壁」などと洒落て呼んだが、星台先生が「小河」と表現したとおりの、長江に比べるべくもない小さな小さな流れだ。

 けれどもそれは陳星台に、故郷の資水を思い出させはしなかっただろうか。「屈原以来の楚人の習性」などと書くと、頭でっかちの後世日本人の偏見かもしれないが、その小さな流れを見ているうちに、きっと帰りたくなったのだろうと思う。

 彼の帰りたかった場所は、どこだろうか。湖南省新化県下楽村であったことは、間違いない。しかしそれは、1905年12月8日のその場所ではなく、府君・陳宝卿と足を温めあって寝た、20年以上前の懐かしい家であろう。

 

 やさしき父の懐になぞらえるには、大森の海はあまりに冷たく、しかも遠浅であった。「海を踏む」というような一瞬の決断ではなく、明確な決意と強い欲求とがなければ、とても人間になし得ることではない。陳星台の死への意志の強さが窺われる。

 

 駿河台には、今も若い学生があふれている。大学がたくさんあるから当然のことだ。彼らもあと30年経てば、わたしと同じ50歳になる。

 陳星台が生きた時間は、たったの30年間だった。同じ時間をまるまる過ごしてきてしまったわたしは、星台先生の認識を越えることができただろうか。

 後生の強みで、難癖をつけることは可能だ。土地問題への認識が浅かったとか、マルクス主義を体系的に理解していなかったとか、今さらそんなことを言う人もいないだろうけれど、「認識の絶対値」として、清末の革命家と今のわたし自身とを比べてみたとき、とても及ぶとは思われない。

 単純な情報量でいえば、社会が進化すればするほど、知識は高度に集積される。ネットワークの進化が、検索と閲覧とを容易にする。

けれども、事実に対峙する真剣さや覚悟が、わたしたちには足りない気がする。下降史観のマゾヒズムと、現代の若い人には笑われるかもしれないが、楊篤生の英国工党などを訳していても、その念は強くなるばかりだ。彼も38年しか生きなかったが、その思想の頂は、まだ望むこともできない。

 もしわたしがあと30年生きられるとしても、彼らが短い人生で勝ち得た思想を、果たしてどこまで共有できるだろうか。

 

 今の若い人たちは、どうなのだろう。「現代の陳天華」みたいな人は、これから出てくることがあるのだろうか。

 

いや、案外もういるのかもしれない。何しろ、懐の深い国だから。

 

 

 

 

 

●12月9日(水)

 110年前の今日、12月9日。清国留学生会館の前の道は、駆けつけた留学生たちで埋めつくされていた。革命党の大文豪・陳星台が大森の海に踏海したと知らされたからである。

 星台先生の亡骸が発見されたのは、8日、夕方6時頃だった。連絡を受けた留学生会館からは、同郷人たちが大森警察署まで迎えに行った。遺体のポケットから出てきた書留証の宛先が留学生会館だったので、宋遯初らがとって返し、絶命書の入った書留を手にしたわけだ。

 陳星台の絶命書は会館の外に貼り出された。絶命書を声高に読み上げる者もいて、泣くは叫ぶは、辺りはたいへんな騒ぎであったようだ。

 

 そして今朝、2015年12月9日。わたしはいつものように、通勤途中にp角坂の上に立った。

今、そこにあるのは、池坊東京本部の巨大な建物だ。その後ろには中央線の線路が四本もあるけれど、当時は単線だったと思われる。二階建ての留学生会館からでも、きっと川は見えただろう。

グーグルマップで湖南省新化県栄華郷(旧・下楽村)を探してみると、資水を望む、小高い山あいの村のようだ。龍のようにのたうつ流れが、きっと遥かに見下ろせたことだろう。

 あまりに矮小な相似だが、この丘の上から見下ろす神田川に、星台先生が資水を思い起こしたとしても、不思議ではない気がする。

 御茶ノ水の谷は、かつては相当うっそうとしていたようだ。小赤壁とか茗渓などと呼ばれた景勝地。星台先生も「游艇、織る如し」と書いている。

 

 留学生会館から東新訳社までは、歩いていくらもかからない。急坂があるとはいえ、10分かそこらだろう。星台先生が在籍していた頃には、法政大学は九段にあったようだ。縦横に路面電車が走ってはいたけれど、きっと歩いて通っていたに違いない。陳星台の歩いた街を、わたしもどれだけ歩いたことだろう。

 

 駿河台の杏雲堂病院の脇には、「法政大学発祥の地」の碑が建っている。今日その前を通りかかったとき、わたしは思いを馳せてしまった。前を歩いていた学生が、わたしの視線に釣られたものだろうか、その碑を見て言った。「発祥の地、多くねぇ? 発祥し過ぎ」

 確かにこの界隈には、そんな碑が多い。日本の「近代」は雨後の筍の如く、御茶ノ水の色々な所から始まっている。留学生という伏流水を経て、それが「中国近代」へとつながっていると、星台先生のためにも思いたい。

 

 

 

 

●12月14日(月)

 小耳に挟んだのだが、例の赤穂浪士の討ち入りは、前日に雪が降ったが、十四日は晴れたそうだ。そのため、月明かりで松明等は要らなかったとか。

 なるほど十四日なら、満月近い月影が雪に照り返して、明るかっただろう。

 月暦だと、そういうことがすぐ分かる。便利なものです。

 

 ところで、本所松坂町の「吉良さんち」には、学生時代に何度か行ったことがある。

 別に忠臣蔵ファンだからではなく、すぐはす向かいくらいに時津風部屋があったから。小さな公園になっているに邸跡に、若い衆が牛のように転がっていたのを覚えている。

 あの頃、相撲部屋めぐりをするのが好きだった。と言っても、素知らぬ顔をして前を通り、横目で看板を確認するだけの、至って内気なものだった。

 神保町から靖国通りをひたすら東へ歩き、両国橋を渡って、その辺りの部屋部屋をまわる。それから南下して、大鵬部屋と北の湖部屋とのある横綱通りを過ぎ、深川まで。

 錦糸町まで行って、佐渡が嶽、友綱に行ったこともある。もうみんな、他の場所に移転してしまっていると思うけれど。

 

 阿佐ヶ谷組は家から近かったから、日常的に自転車で前を通っていた。とくに放駒は、本当にしょっちゅう。その脇を通って自転車を飛ばし、善福寺川べりで本を読むのが好きだったから。

 

 むかしむかしの話だけれど。

 

 

 

 

 

●12月15日(火)

 十二月十四日の月のことを夫に話したら、そういうことも考えて日取りを決めたのではないかと。

 そうかもしれない。昔の人は月をよく知っていたから。

 

 

 

 

 

●12月31日(木)

 劉道一先生、没後109年。享年二十三。満22歳だ。若すぎる。

 後を追って縊死した夫人も、烈婦扱いになっている。後年になってだったと思うけれど、楊度が二人を悼む詩を書いていたんじゃないかな。手許に本がないから、今は確認できないけれども。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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