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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2015年8月 4日 5日 15日 20日
●8月4日(火)
今日も異常に暑い。連続猛暑日の記録更新だそうだが、それをTVで告げる予報士さんたちが、どこかうれしそうに見えるのは、気のせいだろうか。
ともかくこの暑さではとても歩けないので、昨日、今日と、昼休みは図書館に避難。 30分ほどしかとれないが、「英国工党」の下訳をする。「〜を読む」という形式とは違って翻訳と謳っている以上、あまりいい加減なことはできない。諸橋などを引きながら一字一句と格闘していると、楊篤生の指導を受けている学生のような気がしてくる。
天気予報の感じでは、今週いっぱいは、そうせねばならいようだ。
104年前の今日、楊篤生は夜汽車でリヴァプールへ向かう。
●8月5日(水)
楊篤生先生、踏海104年。
それにしても、なぜリヴァプールなのか。帰りたかったからなのか。遺書を書いたり所持金を為替にかえたりという「支度」は、リヴァプールでしたようだ。大港湾都市で、華僑も多かったから、やりやすかったのだろう。
グーグルマップで調べてみるとリヴァプールは、大きな入り江の出入り口にあたる、大英帝国が誇る「海商都市」だ。きっと貿易船が、舳先を並べて繋留されていたに違いない。静かな海面であったことだろう。
「漁民に発見された」ということから、その場所は、外洋に面していたと考える方が自然だ。当時の彼の体調を考えると、あまり遠くまでは行かれないはずだが、何らかの交通手段があったことは、確かだろう。「リヴァプール」という地名にあまり拘泥すると、かなり場所が限られてしまうが、荏原郡の大森海岸を「東京の海」といってよいのならば、もう少し範囲を広げてもいいのではないだろうか(新東京国際空港も東京ディズニーランドも千葉だし)。
さらに調べると、対岸のバーケンヘッドの先端に、Fort Perch Rockという場所がある。岬の突端で、夕焼けに灯台の映えた美しい写真が見つかった。夕陽の下には、マン島の影でも望めるのだろうか。
何時ごろ彼が踏海したのかは、分からない。一日ぶらぶらしたあげく、夕陽に向かって静かに身を投げたのだとしておこう。入り江の奥の汚れた海に沈むのではなく、金色に輝く夕映えの海に向かい、「西方浄土」へと静かに旅立ったのだと思いたい。理を尊ぶ人だから浄土教系は好まなかったようだが、最期ぐらい、美しい優しさに負けて身を委ねても、いいような気がする。
もちろんこれは、全てわたしの勝手な感傷なのだけれど。
●8月15日(土)
今日は敗戦記念日。パソコンを点けたら某ポータルサイトで戦後七十年の思いのようなものを募集していたので、わたしも一文を投稿してみた。掲載されるまで十分ほどかかるらしく、先に近所のスーパーへ買い物に。
帰ってきたのが十時すぎ。確かめようとパソコンを点けると、とんでもない事態になっていた。一分間に十人くらいずつ書き込まれていて、どれだけがんばっても九時台にはたどりつけなかった。
くやしいから、うちのサイトに記録として上げておこうと思う。大勢には何の影響も与えられなかったけれど、書き込みの九割以上は、わたしたちと同じ立場で、やはり心強かった。デモなどでも若い人が増えているようで、良い意味で時代がまた一回転しつつあるような気がする。
地元の駅でビラを配っている九条の会の人たちは、おじいさん、おばあさんばかりなのだけれど、別の駅では若い党員の人たちが、がんばって配っているのを見たりもした。おかしなアヤや「色」などなしに、参加できる時代になったのだね。良いことです。
以下に投稿した文を再録します。
主権者としての我々は、常に無垢な存在である。しかし臣民としては、国家の歴史をその肩に担わなければならない宿命をもつ。ある国民と別の国民とは、けんかをすることはできても戦争状態などを作り出すことはできない。「戦争」とは、国家が国民を兵士に仕立てあげて行う「分捕り合戦」だからだ。つまり我々国民同士は、本質的に敵ではない。
故に「主権者」として我々は、各自の「国」を監視する義務をもつ。国民の意思や幸福を犠牲にして、一部の人間を利する「国益」のために「国」を暴走させないように。
ルソーはこんなことを言っています。
●8月20日(木)
孟秋七月七日、たなばた。
あいにくの天気で、これでは星は拝めそうにない。
週間予報の感じでは、明日、明後日を我慢すれば、暑さはなさそう。少なくとも、ひと頃のような恐ろしい暑さにはならないような感じだ。
秋ですか。予報士さんは、暑さはまだ続くとおっしゃるが、どうなのだろう。
外は秋の虫の音が。