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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2015年3月 1日 3日 6日 15日 20日 22日
●3月1日(日)
三月一日。三・一運動、96年。
3月になってしまった。勤め先は最大の繁忙期になる。とはいえ、ここ数年で仕事自体がめっきり減ってしまったので、そんなに恐くはないけれど。
ここのところ、いつもの公園でジョウビタキのお兄さん(おじさんかもしれないが)に、よく会う。昨日など、植え込みからアオジ(たぶん)を追い出していた。美しいなりをして、気が荒いのね。ともあれ、以前はおじょうさん(おばさんかもしれないけど)しか見なかったから、この鳥に会えるとうれしい。
と思っていたら、今日、公園まで行かずに家の前で会った。正確には、向かいの団地の前の植え込みで、ごそごそしていた。
こうしょっちゅう会えるようになると、ありがたみも減ってくるが、もう少し暖かくなったら帰ってしまうのだから、それまでは素直に喜んでいましょうか。
ムクドリに交じって原っぱでごそごそしている、ツグミ君たちもね。
●3月3日(火)
昨日の朝、星台先生ん家を見下ろす高層アパートで、火事があったそうだ。25階建ての区営住宅の20階が火元とのことで、住民の方々はさぞ恐かっただろう。下の公園に避難されたわけだけれど、上層階の方など、階段での避難は大変だったようだ。区営住宅だから、お年寄りが多いのかな。
それにしても、常々歩いている場所を、TVの画面で見るのは不思議な気がする。
先生の誕生日が近いから、また行くけどね。6日は都合が悪いので、明後日の5日に、その西神田公園へ行ってくる。
などと思っていたら、先程の報道では、火元の住人による放火だって?
ばかな。
●3月6日(金)
陳星台先生、生誕140年!
今日は東新訳社へ行けないので、昨日の昼に行ってきた。
旧・神田区西小川町、現・千代田区西神田で、西神田公園になっている辺りのどこかに、東新訳社はあった。
片隅にたたずんで、「大地沈淪幾百秋……」と口の中でもごもごと。ここに住んでいたのだなあと。ここで寝起きして、読んで語り合って、思想を紡いでいたんだな、と思った。
そして久しぶりに、『警世鐘』の冒頭をつぶやいてみた。。
「噯呀!噯呀!来了!来了! 甚麼来了? 洋人来了!洋人来了! 不好了!不好了!
大家都不好了!」
この調子の良さ。さすが星台先生! 多くの人が耳を傾け、うなずき、拳を握って、唱和したんじゃないだろうか。
やはりついつい見上げてしまった、火事の跡。青いシートのようなもので覆ってあった。本来なら、事件や事故の現場には、しばらく近寄りたくないのだが、今回は怪我された方もいたし大変だったとは思うけれど、亡くなった方はいないので、まあよいかと。
あんな高い所では、住民の方々はどんなに恐かっただろう。あまり高い所に住みたくないな。飛び降りても死なないくらいのところにしたいな。
そんな火事の話は知らぬまま、昨日の昼はいつものコースはとらず、でたらめに歩き回った。駿河台から錦町を経て司町、多町あたりまで行って、淡路町から昌平橋へ。幽霊坂を上って帰ってきたが、時間が余ったので思い立って猿楽町へ。
久しぶりに、在日本韓国YMCAにある二・八独立宣言の記念碑を見てきた。さすがに時間がないので、ちらりと瞥見しただけ。余計な遠回りが悔やまれた。
1919年2月8日のこの宣言が、三・一運動につながった。さらに五・四にも。
●3月15日(日)
ここのところダメになっていたが、少し生き返ってきた。花粉も、昨日、今日とマスクを忘れて外出したけれど、特に酷いことにはなっていない。例年そうなのだが、後半になると症状が軽くなる。どういう訳なのかは知らない。薬が効いてくるのか、慣れてくるのか。
昨日、ウグイスを聞いた。日向水木や沈丁花も咲き始めた。
●3月20日(金)
宋教仁事件発生102年。
今夜、上海駅で撃たれる。
誰か彼を止めてよと思うのだけれど、実際、友人たちみんなで止めたのだけれど、本人が聞かなかったのだから、仕方がない。そういうことになっていたのだろう。
悲しいけどね。
●3月22日(日)
宋教仁没後102年。享年三十二。満で30歳。むごすぎる。
遯初君の評価は、今どうなっているのだろう。
学界の動向など、わたしには分からない。たまに内山書店や東方書店の書架を眺めて、こんな研究が出ているのか〜と思うだけ。何年前だったか、東方に陳独秀関連の本がずらっと並んだのを見て、驚いた覚えがある。そんな感じだ。
などと言ったけれど、本当は学界での評価なんてどうでもいい。もちろん高く評価されればうれしいが、そんなこととは関係なく、わたしは遯初君が好きだ。日記がかわいいからとかではなく、優れた人だと思うから。惜しい人を殺させてしまったと、本気で悔やまれるから。
日記もかわいいけどね。
昨日、つくしんぼを発見。辛夷や木蓮も咲いている。鳥たちも繁殖期なのか、にぎやかにさえずっている。生命の横溢する季節だ。