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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2014年3月 6日 9日 10日 20日 22日 23日 24日 28日

 

●3月6日(木)

 陳星台先生、生誕139年。

 

例によって昼休みに東新訳社へ行った。

今日は風が強く、途中で向かい風にはばまれて、じたばたしてしまった。

それでも西神田公園では、幾人もの人たちがくつろいでいた。

花粉除けのマスクに隠れて、「大地沈淪幾百秋……」と、もごもごやった。

 

あまり幸せな人ではなかったかもしれないが、宝卿公の優しい思い出は救いだろう。

先生自身、没後100年以上経っても、偉人として尊敬されているし。

 

今の中国を見ると、先生が「獅子吼」で描いた軍事大国としての中国を思わずにはいられない。けれども、「獅子吼」の中国は共和国だ。自由・平等・博愛を尊ぶ国だ。

先生、どう思われますか?

 

〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

花粉症の症状は、今のところ大したことないが、昨日から喉が痛いのが気がかりだ。

今、風邪をひいている暇はない。なんとかしなきゃ。

 

 

 

 

 

●3月9日(日

 天文部のOB会。同期10人+1期下4人かな。

 男の人たちは時々会っているようだけれど、「女の子」は子育て期に入っていたこともあってか、ずいぶん久しぶりだ。数えてみたら、8年ぶり? 下の代の人たちとは、10年以上会っていなかったかもしれない。

 笑っちゃうくらい、みんな変わっていなかった。もちろんみんな、年はとっているのだけれど、中身も外身も変わっていないように思えた。

 たぶん、この時間だけ、戻っていただけなのだろうけれど。

 楽しかった。熱を押して出かけてよかった。

 帰宅して計ったら、七度五分……。明日までに下げなきゃ。最大の繁忙期で、休むことはできないから。

 

 

 

 

 

●3月10日(月)

 69年。10万人もの人が同じ命日だなんて。

 

 

 

 

 

●3月20日(木)

 宋教仁事件発生、101年。

 

 ああ、わたしは彼のためなら、いくらでも泣ける。

 

 真面目な若い人の日記というのは好もしいものだが、彼のは殊に、かわいく、愛らしい。

 こんなかわいい子が、実は大変な偉人なのだから。新中国は、彼の手で造られるはずだったのだから。

 そして、にもかかわらず非業の死を遂げ、その死にもかかわらず理不尽な誹謗中傷の中に埋められてしまったのだから。

 これは泣けます。

 

 歴史を後から見てはいけないと思う。その後どうなったか、というところからだけ見て、結果としてたどられた道を基準に、それに近いか遠いかで評価を決めてよいものか。

 後から見れば必然に思えるかもしれないが、渦中にあってはどの選択肢も等価か、あるいは選ばれなかったほうが有力だったかもしれない。

 そしてまた、もっと大きく見れば、ぐるっと回って別の選択肢に戻ってくるかもしれない。

 

 遯初君ひとりの死で議会制民主主義がこけたからといって、時期尚早だとか、画餅だとか、机上の空論だとか、若さ故の暴走(享年三十二。満30歳)だとか、ずいぶん色々言ってくれるじゃないか。

 理想に燃えて、若い情熱で無謀に突っ走ったとでも?

 彼はそんなボクちゃんじゃない。恥ずかしながら、わたしは以前、宋教仁は革命家というより政治家だよね、などと思っていた。宮崎寅蔵までが彼のことを皮肉な陰謀家のように言っている。

 彼には彼なりに十分な成算があってのことで、だからこそ袁世凱も、彼を物理的に「消す」しかなかったのだ。

 それなのに。

 

かつて中国じゃ、彼は議会気狂い(議会迷)呼ばわりで、散々罵られていたけれど、最近じゃ再評価されているのかな。もっともっと評価してほしい。

 

 

 

 

 

●3月22日(土)

 宋漁父先生、没後101年。

 

 撃たれた20日、彼は袁世凱の刺客に気をつけろとの友人たちの忠告に、「革命家が暗殺するならともかく、革命家を暗殺するなんてあるか」と、涙を流して笑い転げていたという。

遯初君自身の自己認識は最後の最後まで「革命家」だったのだ。

けれども、革命はつまるところ政治だ。楊篤生も言うとおり、旧社会・旧政治を壊して新社会・新政治を創ることだ。同志たちが壊す方に熱中する中、創る方を重視したことで、彼は篤生に激賞されている。

 

遯初君が民主主義と議会政治とに殉じた日である今日、わたしはおもしろいところへ行ってきた。

町田市立自由民権資料館。その存在を知ったのは結婚する前だから、もう20年以上経つ。以来ずっと、行ってみたいと思っていたあこがれの施設だ。

 そこに、遯初君の命日である今日行くことになったのは、全くの偶然だ。散歩に出かけた先でお茶を飲んでいたとき、そんな日だと知らない夫が突然「行こう」と言い出したのだ。「だってずっと行きたいって言ってたでしょ」と、全くの気まぐれで。

 行ってよかった。すばらしい展示だった。入館前に慌てて隣のコンビニで買ったメモ帳とボールペンとでメモをとりながら、大興奮でゆっくり見て回った。

 三多摩(千歳村以西)が神奈川県から東京府に移管された事情など、全く知らなかったので、興味深かった。

 図書室(研究室?)には明治期の新聞の縮刷版がいくつもあり、時間があればいつまででも遊んでいられそうだった。常連らしい御老人が二人、なにやら調べ物をしていて、羨ましかった。

 

 遯初君が生まれた頃の話なんだ。その後、行方不明になってしまった運動は、色川流に言えば地下水となって流れ続け、アジア最初の共和国へ続いているのだろうか。

 明治の民権家たちが読んだのと同じ書物を、辛亥前夜の留学生たちも読んだかもしれないのだ。

 そう考えると、なんだか楽しい。

 

 

 

 

 

●3月23日(日)

 昨夜、「実は今日は宋教仁の命日だった」と夫に告げると、驚いた顔で「今日、展示を見ながら、その人たちのことを考えていた」と。

 今のわたしたちよりも明治期の青年たちの方がずっと、辛亥志士の面々と近いのは明らかだ。

 儒学の素養の上に、ルソーだのミルだのを貪欲に吸収していた。

 

 いま、ルソーを読み直しているが、彼らと同じように読むのは、わたしには不可能だ。

 

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 一昨日、アメンボを発見。いつの間にか、虫がずいぶん増えている。

 早咲きの品種なのか、真っ白な桜が満開になっている。沈丁花が香り、日向水木がこぼれ始めた。土筆も見たし、公園に大きなドジョウがいた。

 ムクドリに交じってその辺を歩いているツグミとも、お別れが近いかな。ジョウビタキのお嬢さんとも。

 

 

 

 

 

●3月24日(月)

 民権資料館へ行く道々、道の感じがなんとなくうちの田舎(父の郷里)に似ていると思っていたら、桑畑が出てきて驚いた。わたしにとっては、田舎=桑畑だから。養蚕が主だったのは父が育った頃のことで、わたしが子どもの頃は既に蔬菜と植木とに移っていたが、それでも桑の木はたくさんあった。納屋に桑の葉が広げられている光景を見たような、おぼろな記憶もある。

 

 秩父事件といえば養蚕、生糸だが、やはり武相もそうなのか。

 実際、資料館には、生糸商会関係の史料もあった。

 

 それにしても、肉筆の史料というのは生々しい。そこに籠められた思いは、まだはっきりと生きている気がした。

 

 

 

 

 

●3月28日(金)

 昨夜、調べものがあって『礼記』を繰っていて、おもしろい記述を見つけた。

 王制第五にいう。「中国戎夷五方之民皆有性也不可推移」

 これに続いて、「東方曰夷……南方曰蛮……西方曰戎……北方曰狄」と、おなじみの東夷・南蛮・西戎・北狄、すなわち四方の異民族の、外見や暮らし方などを述べている。

 いうところは、「中国には東西南北の四方と中央(中原)と合わせて五方の民がいるが、五つそれぞれに固有の性質があるので、無理に変えさせてはいけない」と。

 つまり、異民族の同化政策を否定している。

 礼記の成立は漢代だ。そんな時代にこんなことを言っている。

 漢代といえば、霍去病だ李陵だと、匈奴との戦いが有名だけれど、武帝が国際相撲大会(?)を開いたように、国際的になかなかにぎやかな時代だったはず。

 だからこそ、この認識が得られたのだろうか。

 

 ところで、これは夫の持論で、わたしも全面的に賛成しているのだが、長城は軍事的なものというより経済的なものではないかと。軍隊が本気で越えようと思えば、それはそう難しいことではないかもしれない。けれども隊商なら。荷物を満載したラクダで危険を冒すよりも、関所でいくらかの関税を支払ったほうが利口だろう。そんなものじゃないかな、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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