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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2013年12月 5日 7日 8日 9日 30日 31日

 

●12月5日(木)

 自由・平等・博愛。

出版・言論・集会の三大自由。

 楊篤生はこれらを、当然あるべきもの、なければならないはずのものとして語る。

 その彼は欽定憲法に対しては、容赦のない嘲りと憤りとをもって語る。これはもちろん、清朝がまさに欽定憲法を打ち出していたからなのだが、そのお手本となった大日本帝国憲法をも含んでいる。

 

 さてさて。

 自由・平等・博愛と三大自由とは、今どうなっているのか。

 彼の国だけでなく、この国は。

 

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 以前、原朋信が言っていた。日本人はうまく歌おうと思うと、こぶしを回すと。

 なるほど、「うまげに」歌う人は、謎の「しゃくり」や謎のこぶし(ビブラートなの?)を多用する。

 棒を突っ込むように真っ直ぐ歌うと、下手だと思われる。

 声に強い力と豊かな色と(音の正確さもだけれど、これは必ずしも重要ではないと思う)がなければ、真っ直ぐには歌えないのに。

 

 昨夜、奇妙な音楽番組を見ていて、そんなことをつらつら思った。

 

 

 

 

 

 

●12月7日(土)

清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ(『東京朝日新聞』1905年12月7日 文中強調はゆり子)

 

今年は7日、8日が土、日になってしまった。

さすがに主婦が12月にわざわざ神田まで出かけるわけにもいかない。仕方なく、昨日すませてきた。9日にも参りますと断って。

 

 

 

 

 

 

●12月8日(日)

 陳星台先生没後108年。

 

 今日は寒い。昨日までは日中はシャツにGジャンだけでうろついていたので、それよりもう少しだけ厚手の上着で買い物に出て、すぐに後悔した。ちゃんとした冬物を着るべきだった。久し振りにどんよりした空。風が刺すようだ。

 でも、これで平年並みなのだろう。そしてたぶん、108年前の今日はもっと寒かったに違いない。

 この寒い曇天の下、遠浅の海に入っていった彼を思うと、恐い気すらする。

 

大地沈淪幾百秋 烽煙滾滾血横流

傷心細算当時事 同種何人雪恥仇

 

 切ないわ。色々考えて、やりきれない感が強い。

 

 

 ……6日に野音、行けばよかったかな。御茶ノ水駅前で署名に応じたときに誘われたのだけれど、踏ん切れなかった……。

 

 

 

 

 

 

●12月9日(月)

 昼休み、旧・西小川町の東新訳社跡へ行った。

 昨日にもまして寒く、凍えながら暫したたずんだ。

近隣の勤め人が数人と、公園の住人かもしれないおじさんが一人。

 

 寒かった。

 

 

 

 

 

 

●12月30日(月)

 半月ほど前、パソコンが突然の不調。近所の店に担ぎ込み、そのまま入院。その他もろもろあって、まあ、なんとかなったのかな。

 

 

 

 

 

 

●12月31日(火)

 劉道一君、没後107年。享年二十三。

 

 

 

 

 

 

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