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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2013年10月 7日 12日 13日 14日 18日 27日 28日 31日
●10月7日(月)
キンモクセイで脳が溶ける。
ここのところ、なんだかんだ立て込んでいて、訳わからん。
●10月12日(土)
双十節を忘れていたわけではないが、ちょっと準備をしていたことがあって、合わせた文章が書けなかった。
この数年来、楊篤生の「記英国工党與社会党之関係」を訳そうとしてもがいている。
できれば今年の双十節までに上げたかったのだが、とてもとても。
とは言え、完成するまで待っていたら、いつになるか分からないので、できた分から少しずつ上げていこうかと思っている。
この文章は『民立報』に1911年6月14日から7月8日まで連載されたもので、于右任が篤生の追悼文の中で「彼の最近の学識」として触れているものだ。
つまり、彼の最晩年の文章の一つであり、「論道徳」と並んで思想的な到達点と言ってよいかもしれない。
この文章は、英国労働党に多大な影響を与えているアナキストたちへの関心を出発点としている。「自由」を重んずることが、いかにその国の政治や国力を強くするかという着眼点から始まって、仏教までもちだして、「無政府主義」という思想と格闘している。
篤生の結論としては、現時点では時期尚早として「愚也」と断じている一方、該博な儒教的教養から、「四海兄弟之黄金世界」とアナキズムの理想を肯定的に理解している。
おそらく彼は渡英してみて、当時の欧洲で、アナキズムが想像以上に浸透している現実に驚いたのだろう。
今まさに列強によって瓜分されようとしていた中国が、どうにかして帝国主義の世界で生き延びるための方策を考えていたその時、帝国主義の震源地ともいうべきイギリスで、国家を無くしてしまおうとする思想に出会ったことは、篤生にとっても大変な衝撃だったのだろう。
イギリスで会った呉稚暉がこの思想に強く傾倒していたことも、篤生がアナキズムを研究する大きな動機であったかもしれない。なお呉稚暉は、篤生踏海後、リヴァプールでの葬儀に参列している。
多くの革命家の頭の中にあった未来が「富国強兵」と「民族主義」とに留まっていたのに対して、楊篤生は常に高い民主主義と「貴我(現代風に言えば個人の尊厳≒人権)」とを重んじるのを忘れなかった。
孫文の三民主義と並んで、今も希求すべき大切な思想が含まれていると言ってよいのではないか。
中国の学問の伝統として、現実を批判するときに、経書の註釈やそれにたいする反駁に仮託する手法があると聞く。
できればこの拙訳も、そのように読んでもらえると幸いです。
●10月13日(日)
楊性恂先生、没後100年。
楊篤生の兄、楊コ鄰(字は性恂)は、袁世凱の帝政に反対したため捕らえられ、1913年10月13日、銃殺される。享年四十四。生まれたのが庚午六月ということだから、満で43か。
この人については、よく分からない。たぶん華興会には入っていないと思うが、シンパ的な位置にいたのではないかと思われる。明徳学堂で黄興さんと同僚だったし、長沙起義が破れた後、日本に留学しているようだし。
その後は立憲派として活動していた?
でも篤生と仲が悪くなった形跡はない。立憲派をひどく罵っている篤生だが、渡英後もまめに連絡は取り合っていた模様だ。
そして篤生踏海後は、遺志を継いで革命派に接近した?
ともかく呉禄貞等と共に活動していたが、呉が袁世凱に暗殺される。
その後、黄興さんの信頼が厚かったためか、南京留守府秘書に任じられた後、国民党湖南支部長になり、水害の被災民救済に尽力する。
でも結局は袁世凱か。
この人のことはあまり知らないのだけれど、立憲派と革命派とを結ぶ位置にある気がして、とっても気になる。
●10月14日(月)
楊篤生は儷鴻夫人の病気をコ鄰からの手紙で知った。
篤生が娘へ書いた手紙に曰く、
おまえは前便で、お母さんが風邪をひいたけれど、そんなに重くはないと書いていたが、伯父さん(汝二伯父)からの手紙によれば肺病だそうじゃないか。どうして本当のことを言わないんだ……と。
どういうものかな、この人のこういうところは。無神経というか何というか。
静児はまだ、数えで十六歳。どんな思いで書いたのか。
さらに、お母さんは身体があまり丈夫じゃないから心配だとか、中国の医学では肺病はたいへんだとか。
心配なのは当然だし、分かるけれど、子ども相手なのだから、もう少し救いのある書き方をしてほしい。
●10月18日(金)
楊篤生の長女・克恭は、1910年に十七歳だから1894年生まれ。篤生は静児と呼んでいる。幼名だろう。
以前、弟の克念(得児)の立場から駄文を書いてみたことがあるけれど、静児の立場からも書いてみようか。
94年生まれということは、湖南維新運動の頃は四歳。篤生は不纏足会の理事に名を連ねていたから、当然静児は「天足」だった。あるいは既に始めていたかもしれないが、即刻解かせたはず。その場合、母や妻が「嫁に行けなくなる」と慌てただろうが、「これからは天足じゃないと行けなくなる」と一喝して終わり。実際、不纏足会の規則には、娘に纏足させないというだけでなく、纏足している娘を息子の嫁にしない、というのもあった。
そんなことなど、ぐちゃぐちゃと妄想してみようか。
●10月27日(日)
今朝は結露がひどかった。気温は六時の時点で九度。
台風が過ぎて、乾燥したぴっかぴかの晴天なので、布団干し。羽根だの毛布だのを、引っぱり出して、掃除機かけて。
来週か、その次の週末には、床にワックスかけて、じゅうたん出して。
「ふーゆじたーくすまぬ さむーきまちを」と歌いながら。
やっぱりどこからでも、宮本の歌が出てきてしまう。
あんな弱虫のことは忘れよう。
それよりも、制作中だという裸眼の初音源を、楽しみに待とう。
こんな日でも、公園の子どもたちは素足になって池に入っている。ザリガニ、ザリガニって、歓声を上げて。
ザリガニなんていくら獲ったって、食べることも、飼って友だちになることもできないのに、何をそんなに血道をあげるのか。
子どもっておもしろい。
●10月28日(月)
気の早い鴨さんでも来ていないかと、久し振りに不忍池へ。
来ていないだろうと思ったのだけれど、ボート池に三羽いた。それも何故か、キンクロ、オナガ、ハシビロと、ばらばら。
どういうこと? あちこちに散っているの?
●10月31日(木)
半月ほど前、某社のツナ缶で回収騒ぎがあった。そんなによく買う品ではないが、見覚えがあったので調べてみたら、唯一あった買い置きが、どんぴしゃりだった。
よくある賞味期限の打ち違いなどだったら放っておくが、今回はアレルギー症状の出る虞れがあるとのこと。となると夫婦そろってアレルギー体質の身としては、捨ておけない。家で捨ててしまおうかとも思ったけれど、ツナ缶を捨てるのは、かなり厄介だ。中身を出して、手を切らぬように気をつけながら、油と格闘して洗わねばならない。
だから、広告どおりに製造元に送り返してみた。
そのまま忘れていたが、昨日、現金書留が届いた。3缶パックだったので、定価らしき金額の3倍の硬貨と、お詫びだという図書カードとが入っていた。
図書カードにも驚いたけれど、返金額はもっと驚きだ。近所のスーパーの日替わり特価で買ったに違いないのだが、その額の1.5倍以上になっている。改めて「定価」と実際の売値との差に驚く。
とともに、これでは利益が出てしまうことにも、戸惑う。特価だから、いくらかは出るだろうと思っていたが、これほどとは。じゃあ、仕入れ値は一体どうなっているのか? とか、要らぬことをごちゃごちゃ考えてしまった。
図書カードまでもらってしまったし、なにか申し訳ない気がするので、これからもこの会社のツナ缶を食べようかなと思う。
もちろん、特価の日にしか買わないけれど。