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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2013年9月 2日 3日 15日 16日 18日
●9月2日(月)
暑いのは明日まで……という予報を何日も続けて聞かされると、明日という日は永遠に逃げ続けて、決して明日になることはないのではないかと、思えてくる。
そのうちに夜になって 待ちかねた明日になった
親愛なる明日は僕の手の上で今日に変わる
昨日と同じ今日一日に
牧野元「それから」
デビュー曲のカップリングをこんな不思議な曲にしていいのか? と思うけれど、それがカスタネッツというバンドなのだから、仕方がない。
それはともかく。
明日はもう少し楽になるようだが、信じてよいのだろうか。
この多摩の地は「東京」と違って夜は気温が下がってくれて、熱帯夜には滅多にならないけれど。
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何のかんの言ってもわたしは東京の子なので、ただ「震災」と言えば1923年9月1日を指す。まさか、わたしが生きている間に2回も大震災があるとは思わなかった。……もう、ないよね!
わたしの外祖父母は1923年に朝鮮に渡った。弁護士だった祖父が失業したので同郷の「大物」を頼り、その口利きで判事の職を得たのだ。本当はその前にやはり同郷の別の大物を訪ねたのだが、そちらは断られたとか。それは身内びいきをしないことで有名な人物なので当然だが、そっちだったら朝鮮ではなく台湾になっていたか?
ということで朝鮮に渡ったところ、いきなり大水害に見舞われたそうだ。けれども東京にいたら震災に遭っていたわけだから、朝鮮のおかげで命拾いしたと言えるかもしれない。彼等が震災で死んでいたら、当然わたしの母は生まれず、わたしも存在しなかったわけだ……。
●9月3日(火)
亀戸事件、90年。
平沢を殺し、大杉を殺し、後には多喜二をも殺し。
前には幸徳を殺しているし。
そうやっておいて、明治憲法体制は国民に異議なく浸透していた……なんて言わないでね。
●9月15日(日)
昨日は最後の野音。
17年間、夢を見ていたような気がする。
良い夢だったのか、悪夢だったのか。ただ、下らない無駄骨だったとは思いたくない。
今は、悪い事ばかりじゃないと思い出かき集めている状態。
ともあれ、終わったんだ。終わった。
●9月16日(月)
甘粕事件、90年。
二人はそれなりの覚悟をもって生きていただろうけど(だからいいというわけでは断じてないが)、むね坊まで殺さなくてもいいじゃないか。
●9月18日(水)
柳条湖事件。
わたしの父は柳条湖事件の年に、母は盧溝橋事件の年に生まれた。つまり二人とも「戦争しか知らない子どもたち」だったわけだ。
もちろんわたしは戦争を知らない子どもたちだが、でも間違いなく「戦後の子」だ。
池袋の駅前に楽器を持った「傷痍軍人」がずらっと並んでいたのを覚えているし、だらしない格好をしていると「浮浪児みたいに!」、食い意地を見せると「欠食児童みたいに!」と、人権感覚ゼロの叱り方をされた。ついでに言えば、立て膝をすると「朝鮮人みたいに!」と、民族差別丸出しの言い方も。日本だって立て膝が当たり前だった時代が長いのに。
話がずれた。
戦争なんて知らないにこしたことはない。
この世で最も嫌いなことばは「平和ボケ」というもの。これはつまり、戦争状態が「常態」=当たり前で正常な状態で、平和な常態が異常だということだ。
そんなのあるか?! なぜ「戦争ズレ」と言わないのか?
もちろん、他国の戦争を糧に肥え太る……なんて構図があるから、「知らない」なんてにこにこしている一方ではいけないというのなら、分からなくはないけれど。