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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2013年8月 3日 4日 5日 26日

 

●8月3日(土)

 今日は図書館へ。開館直後から昼過ぎまで、2時間半がんばった。

 クロポトキンが引かれていた。篤生はクロポトキンを英文で読んでいる。大杉の和訳では「青年に訴う」、李石曽の中文訳では「告少年」だが、篤生は「青年訓」と書いているから。

 大杉訳を探さなきゃ。引っ越しのときのまま、他のアナ関係文献と一緒に段ボールに閉じ込めたままになっているはずだ。あの箱を開けたら、しばらく床に座り込んで、あちこちめくって時間を潰しそうだ。好きなんだよね、大杉とか石川三四郎とか、あの辺の人たち。

 

 そして明後日は8月5日。102年目。

 

 

 

 

 

●8月4日(日)

 今夜アバディーンを発って、夜汽車でリヴァプールへ向かう。

 

 

 

 

 

●8月5日(月)

 楊守仁先生、没後102年。

 

 辛亥の歳、閏六月十一日。西暦1911年8月5日土曜日。

 

 例によって一人で追悼した。リヴァプールにもアバディーンにも長沙にも行けないし、東京でのゆかりの場所も分からないので、『游学訳編』の発行所とされていた清国留学生会館の跡へ行っただけだ。

 

 リヴァプールの墓所はどうなっているのだろう。華僑の人たちがまだ守っていてくれるのだろうか。

 本国ではどうなっているのか。克念君の孫がわたしと同じくらいだろうから、その代かその下くらいの方が、祀ってくれているだろうか。

 

 学界では? 忘れられているように思えて仕方ないのだけれど。誰か再評価してくれないか。まっとうに、評価してくれないだろうか。

 こんなに優れた人なのだから。

 

 

 

 

 

●8月26日(月)

 つば九郎のブログを読んで、泣いてしまった。自分でも驚く。

 正直な話、わたしは極々薄〜いファンで、神宮に行ったこともないし、ここ数年は気持ちもだいぶ離れて、選手もほとんど分からなくなっている。ブログも、つば九郎のをたまに読む程度だ。

 宮本慎也(我が家で「宮本」と言うと宮本浩次を指すので、ヤクルトの方は宮本慎也と呼ぶことになっている)は、わたしが最も入れ込んでいたときのメンバーの、最後の生き残りだった。だから彼の引退には感慨がなくはない。でも、早晩この日が来るのは分かっていたし、今年あたりだろうとも思っていた。

 それなのに泣けてしまったのは、つば九郎との気持ちのやりとりが切なかったから。

 

 わたしがヤクルトを好きになったのは、チームカラーが明るかったからだ。なんか知らないけど楽しそうな人たちだな〜と思ったからだ。

 泣いてちゃいけないわな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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