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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2013年5月 13日  30日

 

●5月13日(月)

 気がついたのだけれど、楊昌済先生が亡くなったのは、満で48、数えで五十歳だから、今のわたしと同じだ。

 みなさんの年齢を、どんどん追い越していく。

 章行厳がいるから大丈夫、とも思うが、そのうち彼にも追いつきかねない。なにせ、祖母は満100(数え百二)、曾祖母も90過ぎ。先年亡くなった伯父も90歳だった。

そんなに生きねばならないかと思うと、ちょっと怖い。

 

 今日は卯月四日。もうすぐ八日の灌仏会。釈尊も法然上人も八十まで生きられた。

怖がらずに、死ぬまで生きようか。

 

 

 

 

●5月30日(木)

ここのところずっと、ある古典を読んでいる。18世紀に書かれたもので、誰でも書名は知っているが、「その筋」の人でなければ手にとることはないと思われる本だ。わたしも、こんなものを読む羽目になるとは、全く思っていなかった。普通に暮らしていて意識に上るような本ではないからだ。

にもかかわらずそんな本を読み始めたのは、そのとき読んでいた本で、ちょっとだけ触れられていたからだ。けれどもそれは、きちんとした引用や紹介ではなく、「あの本でもこういうふうに言っているが」というふうな、ついでに言及するという程度のものだった。

なにかが引用されているを見ると、正しい引用であるか、文脈から切り離した恣意的なものではないか、原典を確認するのは習い性となっている。諸橋をひいたあと、孟子だの史記だのを確かめるために図書館の階段を駆け降りるのは、いつものことだ。けれどもここは、そこまでするほどのものではなかった。そんなことをしなくても、読み進めてかまわないところだった。それなのに引っかかったのは、言われた内容がおもしろかったからだ。

あのとっつき悪そうな大古典は、そんなおもしろいことを言っているのか。そう思ってしまった。

こういう場合、普通なら図書館で借りてくる。そんな大名著、わたしの頭で理解できるとは思えず、よって、途中で投げ出す投げ出す可能性が極めて高いからだ。

けれども、この日たまたま三茶書房の前を通ると、表のワゴンに岩波文庫版が揃いで出ているのを発見してしまった。安価だったので、勢いで購入。こうなったら意地でも読み通さねば、と思ったのだけれど。

 

思ったとおり、理解不能。それでも悔しいから、ともかく全部ページだけはめくるつもりで、進めている。そうするうちに、世界観のようなものが、おぼろげにでも見えてくる気がするし、時折ピカッと光が射したように「解った」気になれる箇所も出てくる。それを励みに、ページを繰り続けている。

 

以上、長々と書いたのは実は前置きで、本題はここからだ。

この本は非常にきれいだった。傷みやすい文庫本なのに、薄紙こそないが帯はあり、ページの折れどころか表紙のめくり癖すらない。だから、「買ったけど読まないで流しちゃった」類だろうと思ったのだが、違った。

書き込みが多い。黒鉛筆と赤鉛筆とで、細い傍線がきれいに引いてある。欄外にも細い丁寧な字で、要点のまとめなどが書かれている。

驚いたのは、時おり主要な用語の原語が書かれていること。この訳書の註にはない語だ。

 

この本の持ち主は何者だったのか。学生、それも院生か何かで、ゼミででも講読していたのか。原書を脇に置いていたのか、それともこのくらいの用語は「その筋」では常識なのか。

 

もう一つ驚くのは、書き込みが減らないことだ。こういう大著の場合、はじめのうちこそ盛大に書き込むが、進むにつれて減っていき、そのうち全くなくなってしまうのは、よくあることだ。

けれどもこれは、全く減らない。全五冊のうち、一冊終わって二冊目に入っても、相変わらず几帳面な細い字で、処々書き込まれている。

一体この人は何者なのか。本自体の内容が意味不明なだけに、この尋常ならざる前の持ち主さんへの興味が高まってしまった。

 

そして二冊目の終わりに、手掛かりを発見した。

日付と、ひらがな四文字の男性名とが書かれていた。

日付は二つ。62年と、72年。10年おいて再読したらしい。

62年のほうには、奥さんらしい女性の名と彼女が身重らしいことが、季節の風物とともに記されていた。

そして72年のほうには、都内の私大の名を挙げ、そこへ行くことについて学部から了承を得た旨が。

10年経って就職が決まったのか? あるいはただの転職か。感じからして、母校に招かれたという風でもないが。

 

三冊目に入っても、書き込みは減らない。

そしてこの冊も、終わりにまとまった記述があった。

72年に読んだ際の感想なのだが、これが熱い。著者のすばらしさを讃えることばを、幾重にも書き連ねている。冷静な研究者かと思っていたのに、たいへんな興奮ぶりで、しかもその対象が、わたしには理解不能なこの本だと思うと、驚くほかなかった。こんな訳の解らぬ本を読んで、こんなに大興奮できる人は、どんな人なのだろうか。

 

そこで気がついた。この几帳面な人のことだ。二冊目と三冊目との巻末に書き込みがあったということは、一冊目にもあったに違いない。

そう思って一冊目を確認すると、案の定あった。

同じく62年付と、72年付と。72年のほうに、「○○と××」執筆のために再読……とある。××はこの本の著者。○○はそれと同時代だが別の国の思想家だ。

これは大きな手がかりだと思い、とりあえず「○○と××」で括ってネットで検索してみた。

 

そして見つけた。

そのものずばりの書名はなかったが、○○の研究者で××との比較研究もしている人に、あの四文字名前の人がいた。あの私大の名誉教授として、10年ほど前に他界されている。ネット上には死亡記事もあり、喪主である夫人の名も一致していた。書き込みにあった土地の大学に勤めていた経歴もあり、これだけ一致しているのだから、まず間違いない。

 

訳の分からぬ感動と興奮とで、部屋の中をうろうろと歩き回ってしまった。

只者じゃないと思ってはいたが、それどころではなかった。「その筋」の人どころか、斯界の権威だったらしい。

そんな人の本が、死後十年経って、なんだって神保町の店頭ワゴンなんかに現れたのか。

そしてわたしなんかの手に渡って、読めもしないのにページだけ繰られて。きれいな本だったのに、電車で読むからどうしても傷んでくるし。

こんなにも大切に読んでいらした先生に対し、申し訳なくてならない。

 

○○の研究者と知って、一つ得心がいった。なるほど几帳面なわけだ。

○○は、その行動が町の人の時計代わりになったという伝説があるほど、規則正しい生活を送ったことで知られる。

そんな人に惹かれる人は、やはりきっちりかっちりとした人なのか。

ついでに言えば、○○というと楊昌済先生も思い起こされる。彼は朱子学を基礎に○○を修めた。人格者と言われるが、逸話を見ると自己を律することに厳しい人だったようだ(プライバシーが絡むから、固有名詞は極力伏せようと思ったが、限界がある。○○が誰かは、ばればれだろう)。

 

この先生はどんな方だったのか。書き込みからは思い浮かべられる姿は、研究室か自宅か分からぬが、余計な物の一つも置かれていない卓の中央に本を置いて正対し、背筋を伸ばして端坐(腰掛けているだろうけれど、精神的には端坐という趣で)して、その姿勢のまま時に拳を握って吠えたり唸ったり……。そんな感じだろうか。

 

 

それにしても、この本をわたしなんぞが持っていてもよいものか。

私事に亘る書き込み、××に対するあの熱い思いなど、お弟子さんが見たら何と思うだろうか。

わたし自身、恩師の若い頃の蔵書の書き込みなんか見つけたら、やはり何らかの感慨は覚えるだろう。学部しか出ていないわたしですらそうなのだから、親しく教えを得た方々は特別な思いを抱かれるだろうに。

先生の専門は○○なのに、××に対してあんなにも熱い思いをもっていたとは! とか。

 

単なる文庫本だし、放出された事情など詮索するのも礼を失することになる。

わたしとしては、この奇遇をありがたく楽しんで、せめて大切に読もうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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