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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2013年3月 2日 3日 6日 9日 11日 12日 13日 17日 20日 22日
●3月2日(土)
昨日は湯島へお参りに。梅は境内はだいぶ咲きそろっていた。白梅も紅梅も、一重も八重も枝垂れも、みなそれぞれきれいだ。わたしの好きな女坂は、まだまだ。ここの白梅が咲きそろうと壮観なので、来週以降もまめに見に行こうと思う。
梅は香りも好き。
忘れていたが一昨日は祖母ウメの命日だった。末子である父の60歳の誕生日だった。農家なので葬儀は自宅で行われ、庭の梅が満開で香っていた。梅の香を意識したのは、そのときが初めてだった。
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母親大人膝下敬稟者
(略)
私はロンドンで、ここのところ健康状態は良好です。ロンドンは人口が多く空気が悪いので、毎日必ず公園を一時間散歩しています。
英国に来てからは、勤めは毎日6時過ぎまでで、上海の神州日報社にいたときよりは、いくらか楽です。けれども、勉強する時間がとりにくいのが悩みです。私は英国では英語をがんばろうと思っていたのに、なかなか思うに任せません。
英国には中国人学生は2、300人いますが、大体は中学校か予備校にいて、専門学校や大学にいるのは3、4割に過ぎず、程度はまちまちです。学ぶというのは難しいものです。
英国は欧洲の立憲国で、世界で一番の強盛国です。人々の暮らしぶりを見ると、我が国とはだいぶ違います。汽車や鉄道などは驚くほど発達していて、東洋の及ぶところではありません。人々は落ち着いて物静かで、実利を尊びます。残念ながら英語が未熟なので、深いところまでは分かりません。
二哥(コ鄰)からは最近たよりはありましたか? 北京での様子はどうなのでしょうか。とても気に懸かっています。
どうぞくれぐれもお変わりありませんように。
子 守仁 跪稟(敬具)
絵はがき十数枚をお贈りします。 七月十六日(1908年8月12日)
〜あまりちゃんとした訳ではなく、ざっとした訳です。
ほかの時代に生まれていれば、普通に官途に就いて、能吏として便利に使われ、それなりに出世もして……、そしてある日突然、褐色の憤怒に駆られ、五斗米の為に〜とか何とか言って帰郷してしまうか、已んぬる哉国に人無く我を知ること莫し〜などと言ってどっかへ行ってしまったのではなかろうか。
うまく世渡りしようと思えばできるだろうに、でもやっぱり、できないんだろう。
難儀な人だ。
●3月3日(日)
市の図書館に中国語の手紙の書き方の本があったので、少しパラパラしてみた。
やっぱり、100年前の士人の手紙とは全然違う。
「士人」だなあ。
全くの家書〜家族宛の私信なのに、それでも形式は固苦しい。
こういう人だから、子どもたちにの手紙にもうるさい。字が汚いの、誤字が多いの、言葉遣いが間違っているの、文章がまずいのと。あげくに、お前は生まれつき頭が悪いのだから、人一倍がんばらねば一人前になれないぞ……。
ロクに一緒に暮らしたこともない子どもたちへの、彼なりの愛情表現なのは分かる。たぶん篤生自身が、厳しくすることこそが愛だと思い込まねば、とても堪えられないような育ち方をしたのだろうと推察される。
身近にいて見てやれないのが、はがゆかったのだろうけれど、でも、どんなものだろう。
あなたの息子が、頭悪いわけないでしょう。
現に、清華学堂(北清事変の賠償金で建てた米国留学のための予備校。清華大学の前身)に合格しているし。
このときは篤生もよほどうれしかったらしく、持ち前の細かさとしつこさとで、北京遊学について細々と指示する、長々しい手紙を書いている。
克念くん、米国に留学したのだろうか。姉の克恭の夫も清華の学生だったから、黄一欧みたいに夫妻で留学したかもしれない。
つまらぬ、どうでもいいことだけれど、そんなことも気になる。
●3月6日(水)
陳星台先生、生誕138年。
今日は暖かいからか、西神田公園はお昼を食べる人が多かった。居場所がないので、「大地沈淪……」を口ずさんで早々に立ち去る。マスクをしているので、口を動かしても大丈夫。
その後、『警世鐘』の冒頭「あいやーあいやー、来了、来了……」を唱えながら歩いた。
御茶ノ水の谷には河津桜が咲いていた。ほぼ満開。わたしは桜より梅が好きだが、赤味の強いこの桜はきれいだと思う。
●3月9日(土)
3月は心身を労する月だ。ただでさえ勤めの最大の繁忙期であるところに、花粉が襲う。
そこに、6日の星台先生誕生日はよいとしても、20日の宋案発生と22日遯初君命日と辛い日。
そして言うまでもなく三月十日と3・11。
心が重い。
●3月11日(月)
空襲被害者の援護法が今国会で成立の模様……という報道があったのは、去年のこと。それきり続報がないので、どうなったのかと思っていたら、昨日になってわかった。
年末の選挙で議連の議員の約半数が落選したため、議連そのものが消滅したのだと。
夫に知らせると、「遺族が死に絶えるのを待っているんだな」。
そういうことかもしれない。
14時46分に黙禱をと思っていたが、職場はしっちゃかめっちゃかで、すっかり忘れてしまった……。
●3月12日(火)
月暦二月一日。
お昼に湯島へお参りに。今月は2度目になる。もちろん菅公は大好きで、きちんとお参りしているが、本当の目当ては梅と鴨……と言われても仕方ないかもしれない。ほかの季節には、月に1度くらいしか行かないから。
もっとも、湯島の天神様は江戸庶民の行楽地だったのだから、菅公も許してくださるだろう。
前回まだまだだった女坂の白梅が見たかった。今日はさすがに見事だったが、よく見ると散ってしまった木も多く、やはり先週来るべきだったかと、少々悔やまれた。
いつもどおり不忍池に下りて少し歩く。ハシビロガモが多い。あとはオナガガモにキンクロハジロ。バンも数羽。マガモもいた。ヒドリガモも。ユリカモメはにぎやかで、気の早い子は頭が黒くなり始めていた。
スズメを手にたからせているおじさんがいた。この人は前にも見たことがある。鴨おじさんの進化形だろう。
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御茶ノ水の谷では、河津桜が満開のようだ。今日はそれを対岸の皀莢坂から眺めた。
百年前の留学生たちも、この坂を繁く上っただろう。坂の上には清国留学生会館があった。
でも、当時はこの谷はこんなではなかったはずだ。江戸開府の頃に掘削されてできて以来、景勝地ではあったと思うが、もっとずっと鬱蒼としていたのではないか。明治初期の写真を見たことがあるが、そんな感じだった。士族の商法で何故か養兎が流行り、当然ながら失敗して捨てられたウサギが多数、御茶ノ水の谷をぴょこぴょこしていたという話を、青山菊栄が御母堂からの聞き書きとして記していた。
わたしの記憶にある神田川も、こんなではなかった。洪水が多く、その度に丸ノ内線が川を渡れなくなっていたから、色々と工事をしたのだと思う。護岸工事が終わって今のようなさっぱりした姿になったのは、割と最近のことだ。
きれいになったのはよいし、水害も減ったと思うが、学生時代に大好きだった御茶ノ水橋下の彼岸花の群落が、見るかげもなくなってしまったのだけは残念だ。
ずっと景勝地ではあったのよね。「茗渓」だの「小赤壁」だのという雅称があるから。おそらく昌平黌に集った江戸の漢学者がつけたのだろう。
星台先生も書いている。小河あり、游艇織る如し、と。
●3月13日(水)
朝、玄関を出たらホーホケキョ。今年初ホケキョ。
沈丁花も咲いたし、辛夷や木蓮も咲き始めた。
昼に聖堂に行くと、杏も咲いていた。今日は聖堂へは行くつもりはなかったのだが、聖堂前の交叉点を通りかかったら、渡れというように信号が青に変わったので、素直に従った。いつもながら、かーんと冴えて気持ちのよい場所だ。
3月13日は大阪大空襲。
●3月17日(日)
昨日、土筆を発見。コウモリも発見。
青々と芽吹いた柳の並木を歩いて、「やはらかに柳あをめる」と、難儀な人の歌を思ったら、続いて出てきた、やはり難儀な人の詩が。「寒風又変為春柳 條條看即煙濛濛」
石川一くんと李長吉と。生きた年は千年以上違うが、享年は啄木が満で26、長吉さまが数えで二十七だから、ほぼ一緒だ。ともに家族の生活を負っていた。
長吉さまは大好きだけれど、諳んじているのはこの「野歌」だけだ。ただ、「将進酒」の終わりの四行も好きで、よくいたずら書きしている。
まさに今の季節の詩なので、ついでにこの部分だけ記しておく。
況是青春日将暮
桃花乱落如紅雨
勧君終日酩酊酔
酒不到劉伶墳上土
いわんやこれ青春、日まさに暮れなんとす
桃花乱れ落ちること紅の雨の如し
君に勧む終日酩酊して酔え
酒は到らず劉伶墳上の土(大酒飲みの劉伶でも、墓にまでは酒はこないのだから)
●3月20日(水)
宋案発生100年。
1913年の今夜、上海駅で。
この事件がなかったら、遯初君の構想どおり、袁世凱を虚君にして、アジア初の共和国としてやっていけただろうか。
そんなことは分からないけれど、今日は悲しい日です。
●3月21日(木)
星台先生んちの近くを通りかかったので、「あなたのために泣いてくれた遯初君が、いま苦しんでいるの。助けてあげて」と言おうと思ったら、出てきたことばは「早く連れてってあげて」だった。
いつも思う。どうして彼のような人が、こんなに苦しい酷い目に遭わねばならなかったのか。非道な人ならどんな目に遭ってもよいということではないが、でもやはり、これはどうかと思う。天の意はどこにあるのか。
ほかの人のことを考えてみた。劉道一君は斬首。楊コ鄰は銃殺。寧仙霞は知らないが、コ鄰と同時期だから同様だろうか。程家檉もかな。
ひどかったのは禹之謨だ。半年もの拷問の末に処刑。時期から見て斬首か?
黄興さんと楊昌済先生とは胃病……。
などと並べてみても詮ないこと。
遯初君の死は遯初君の死だし、コ鄰の死はコ鄰の死だ。較べることなどできない。
本人の徳とも関係ない。
●3月22日(金)
宋漁父先生、没後100年。
ぎりぎりまで意識はあって、黄興さんに「安心してお逝き」と引導を渡されたということになっている。
享年三十二。31歳の誕生日の2週間前だった。
ともあれ、彼の死は歴史を変えた。影響はこの島国にも確かにあった。
日記のかわいい印象が強いが、間違いなく傑物だし、偉人といってよい。わたしとしては、この稀有な魂を悼むばかりです。