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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2012年8月 3日 4日 5日 6日 14日

 

●8月3日(金)

 朝、ヒグラシの声で目が醒めた。

  

 ここ何年か、日本中世にどっぷり漬かって、出られなくなっている。頭が悪いので、似たような本を何冊も読むことで、やっとこおぼろげながらも何やら像を結び始めているところだ。

 なにせ、時空ともに範囲が広い。時は保元・平治(+前九年・後三年)から関ヶ原(+島原くらいまで)。空は北海道から琉球までと言いたいが、もっと広く、樺太・沿海州から、朝鮮半島・満洲・中国沿岸はもちろん、ずっと下って東南アジアまで。マラッカ海峡を越えてインド洋へ。

 ここまでくると、懐かしい。むかーし、大学2年のとき、なぜか勝手にインド洋貿易に興味を持ち、ごそごそ調べていた。その成果はほとんど覚えていないが、あの頃なじんでいた研究者の名前を、いま再び目にするようになって、なにか不思議な気がしている。

 

 中世からはまだまだ離れられそうにないが、それでもそろそろ近代にも戻りたい。

 篤生の命日も近いことだし。

 で、リハビリにと譚瀏陽先生の『仁学』を読もうとし、間違って(?)隣にあった啄木の評論集を手に取ってしまった。文学に無知なわたしが読んでも、分かるものではないのに。

 それでも、同じ時代に同じ東京の空気を吸った人間の書いたものなので、それはそれで興味深い……などと言っている場合じゃなかった!

「A LETTER FROM PRISON」。「大逆事件」で挙げられた幸徳が、花井卓蔵らの弁護士に宛てた手紙を、啄木が入手して書き写したもので、その昔わたしの啄木びいきを決定づけたのは、この文章だった。

ここで啄木は、幸徳の文章に幾つか註をつけている。その註の一つで、クロポトキンの自伝が原文(英語)のまま引かれている。その中に、「家庭的専制」の語があった!

 

 楊篤生の「論道徳」に「家庭内専制」の語が出てくる。わたしはずっと、これがひっかかっている。

 その鍵を見つけたかもしれない?

 

 この件に関しては、日を改めて書いてみたい。

 

 

 

 

●8月4日(土)

 1911年の今日、楊篤生はアバディーンを発って、夜汽車でリヴァプールへ。

 

 懐中叔祖(楊昌済)や章行厳(士サ)には、どんな顔で何と言って出てきたのだろう。そして二人は、どんなふうに送り出したのか。まさか、置き手紙とか?

 そういったことが、何も分からない。

 こちらとしては、想像(妄想)するしかない。

 

 

 

 

●8月5日(日)

 辛亥の歳、閏六月十一日、楊篤生踏海。

 これは西暦1911年8月5日土曜日にあたる。一部に7月説があるが、これは閏六月を六月と間違えたものだろう。楊昌済先生が「閏六月」と書いているのだから、陽暦8月が正しい。

 

 残念ながら日曜なので、この多摩の地から出られず、ゆかりの地で偲ぶことができない。

もっとも、ゆかりの地と言っても、留学生会館くらいしかない。どこに住んでいたか分からないし、早大に行くわけにもいかないし。

あとは、東京座? 遯初君を誘って「幻戯」を見に行ったという東京座があったのが、三崎町だと思われる。松本英紀氏は猿若町と書いているが、江戸三座と混同しているのではないか? 猿楽町ならともかく、猿若町(浅草)ということはないだろう。

 手許の神田区の地図(明治36年=1903年版。まさに彼らが出かけた年)では、三崎町に東京座がある。三崎三座の一つとして、今は千代田区教育委員会か何かが立てた札が立っている。わたしはこれを見る度に、「ここですよねぇ」と心の中で篤生に話しかけている。水道橋駅近くの、わたしの歩き慣れた街だ。

 幻戯を見たあと遯初君は、近くに住む友人のもとに泊まっている。ここは星台先生の東新訳社もすぐ近くで、この辺りには留学生が山ほど住んでいた。どうしたって、浅草よりはこちらのほうが自然だろう。

 この逸話は大好きだ。「幻戯(松本氏は「魔術」と訳している。今で言えば「マジックショー」だろう)」が好きだなんて、いかにも篤生らしい。真っ当な士人としての教育を受けた人だけれど、別の世に生まれていたら、理系の学問を選んでいただろう。そういう志向が強いように思う。

 

 たまたま今日は陰暦十八日の観音様の縁日でもあるので、観音経を読む。彼も仏徒だ。

 

 

 

 

●8月6日(月)

 ケンイチロウ君ごめんなさい。わたしは今年も、黙祷を忘れてしまいました。ちょうど電車の中での読書時間。どうしても忘れてしまいます。

 ケンイチロウ君は被爆三世で、御母堂と同じ持病を抱えている。

 けれども、原爆症は遺伝しないことになっているらしい!! 少なくとも、遺伝は確認されていない、のだそうだ!

 先日の新聞に、アイドルだかモデルだかのお嬢さんのインタビューが載っていて、それによれば、彼女のお祖母さんが十代で被曝し、被曝二世であるお母さんは癌で若死にしているとか。原爆との関係は分からないと、彼女は言っていたけれど。

 胎児性水俣病だって、「専門家」がこぞって否定する中、患者さんたちの実感からの訴えを聴いた原田先生が、調べて立証されたのだ。

 原爆症の遺伝だって、ないと言いきってよいものか。じゃあ、ケンイチロウ君の病気はなんなんだ?

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 今日は11時頃から豪雨。その中を、留学生会館前から星台先生の寓を経て、東京座跡へ。ズボンがずぶ濡れになって楽しかった。

 

 

 

 

●8月14日(火)

 1945年8月14日深夜、埼玉県北西部の村に住んでいた父は、熊谷方面の空が真っ赤になるのを見たそうだ。その空の下に森村誠一がいたらしい。

 あの戦争で最後の空襲とか、埼玉県で最大規模の空襲とされている。

 理不尽すぎる。既にポツダム宣言を受諾しているのに、何のための殺戮だったのか。

 

 父は当時中学生で、動員で飛行機を作っていた。敵に見つからないように松林の中に隠していたが、敵は空から見るのだからこんなことをしても丸見えだろうに……と思っていたそうだ。

 八人兄弟(女3人の下に男5人)の末子で、次兄・三兄は小学校を出てすぐ奉公に出され、中学校へ行ったのは末の二人だけだ。上から三人がいずれも満洲に出征し、長兄は戦死、次兄はシベリアに抑留されて辛くも生還した。

 その次兄が戦地から弟2人に送ったハガキを見せてもらったことがある。「自分は学がなくて軍隊で苦労しているから、君たちはしっかり勉強するように」というようなことだった。

 この伯父は去年90歳で亡くなった。

 

 

 

 

 

 

 

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