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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2011年12月 3日 7日 8日 11日 17日 27日 31日

 

●12月3日(土)

 辛亥100年の今年も、12月になった。

 12月には7日があり、8日がある。そう言えば道一君の命日も12月だ。

 

 今日は午前中、嵐だった。強い北風と雨。近所に買い物に行ったが、風に向かって歩いたので、膝から下がびしょ濡れになった。その後、昼前にいきなり明るくなった。夕方前に散歩に出ると、途中から強い南風に吹かれて、木々の梢から赤い葉が舞い上がり舞い散った。

 

 

 

 

●12月7日(水)

清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ

(『東京朝日新聞』1905年12月7日)

 

 昼、例年どおり西神田公園へ。正確な場所は分からないが、この辺りに東新訳社はあった。

 そこで1905年の今日、星台先生は「絶命書」を書いた。

 

 あの記事を読んで、ひとたびは激怒しただろうか。けれどやがて(たぶんそう時間はかからずに)激しい怒りはおさまり、そして決意したのだろう。それからゆっくりと筆を執った。わたしはそう思っている。彼は激情型の人ではあるけれど、決意も執筆も静かな落ち着いた状態でなされたはずだ。

 そして「絶命書」を書き終えてから、再び筆を手にして、父・宝卿公の小伝を書いた……。

 

 公園は今日は人が多く、ゆっくりできなかった。小さい子たちとお母さんたち、近隣の勤め人たち、そして路上生活者と思しきおじさんたち。

 

 公園をあとに、図書館へ。白山通りのイチョウ並木はだいぶ黄色くなったが、まだ青味も残していた。100年前のこの辺りは、留学生でいっぱいだった。今も、歩いていると当たり前に中国語が聞こえる。留学生かどうか分からないが、若い人が多いようだ。

 なにか不思議な気がする。

 

 

 

 

●12月8日(木)

 陳星台先生没後106年。

 

 昨日は暖かかったが、今日は午後から雨ということで、べた曇り。旧・西小川町の東新訳社跡と思われる西神田公園は、さすがに昨日よりは人が少なかった。

 それでも昼時だから人がいないわけではない。

いつも立つ木陰は、いつの間にか前がゲートボール場になっていて、おじいさんが二人、練習していた。しくじって、大げさにのけぞり、手を額にあてるおじいさん。

 そこを避けて砂場の後ろに立ったが、すぐ脇のベンチに人が来てお弁当を食べ始めてしまった。

 めげずにがんばっていたけれど、正面のブランコが気になってならない。わたしが公園に来たときには既にいたのだが、学生らしい男の子が一人で乗っていて、かなり激しくこいでいる。ほとんど水平にまで、上がっていた。遠くて表情までは分からなかったが、彼は何だったのだろう。

 

 それら全部を振りはらって、「大地沈淪……」の詩を口ずさみ、一人きりで慰霊祭を行った。

 本当は大森へ行くべきなのだが、大森はあまりに遠い。遠すぎる。

 新化か長沙でも、誰かお祀りしてくれているだろうか。きっとしてくれている。そう信じる。

 

 御茶ノ水の駅前で、赤紙(召集令状)の復刻を配っていたのでもらってきた。毎年この日にもらっている気がする。わたしにくれたのは上品なおばあさまで、「戦争のできる国になっていくようで、怖いですよね。無関心が一番怖いんです」と言っていた。

 

 

 

 

●12月11日(日)

 昨夜の皆既月蝕は見た。もちろん、ずっと見ていたわけではなく、10分おきくらいに双眼鏡を持ってベランダへ出た。

 満月は明るすぎて、オリオンさえ負けてしまう。が、欠け始めると星が見えてくる。月をよそ目に、大好きなうさぎ座ばかり見ていた。飽きるとヒアデスや、小三つ星。プレアデスは高すぎてベランダからは無理だった。

 皆既まではベランダから見られたが、その後は位置的に厳しくなったので、玄関から出て開放廊下で見た。正面にカシオペア。

 

 高校の時、学校で見たことを思い出す。あの夜もよく晴れて、満月を太陽観測の要領で紙に投影して遊んだ。紙をぺらぺら動かすと、サラミソーセージみたいだと皆で笑った。

 皆既になると、一斉に星が出た。大ぐまの爪まで見えた。新宿に近接したあの学校であんなに星が見えたのは、3年間であのときだけだった。

 

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 8日の帰り道、氷雨の中を凍えて歩きながら、星台先生を思った。

 12月の曇天。寒かったに違いない。おそらく今よりずっと寒かったはずだ。そんな日に遠浅の海に入る。それはどういうことなのか。どんな覚悟が要ったのか。それとも、あまりの冷たさに、あっという間に何も分からなくなったのか。それにしたって、ある程度は意志的に進んでいかねばなるまいし。着衣のままだから、身動きもとりにくかっただろうし。

 などなど、ぐるぐるぐるぐる、らちもなく考えた。

 

 

 

 

●12月17日(土)

 正直言って、忘れていました。

 1911年12月1日、モンゴルは清朝からの独立を宣言した。

 辛亥革命の便乗みたいだし、そういう面もないではないが、そんな風に言ってはいけない。武昌起義から2カ月も経っていないこの時点で宣言し得たのは、それなりの経緯があってのことだ。

 モンゴルはずっと、漢人に対する満人の同盟者という位置づけで、優遇策がとられていた。それが、20世紀に入って崩される。たぶん「新政」の一環なのだろうが、対蒙新政策が打ち出され、清朝はモンゴルへの支配を強めようとする。

 当然それは、モンゴル側の反発を招く。それまでも牧民たちによる反清闘争の伝統はあったが、聖俗貴族層も反清の動きを始める。具体的には、ロシアに援助を依頼する密使を送っている。

 そういう中で勃発した辛亥革命を、黙って傍観する理由はない。

 そしてモンゴルは独立を宣言した。漢人が清朝から独立したように、モンゴルも清朝から独立すると。

 

 だから、翌12年1月に発足する中華民国がモンゴルの独立を認めなかったことに、義があるとは思えない。

 それが、わたしの辛亥への興味の「そもそも」だったのだ。

 あれから二十余年。ずいぶん違うところへ来てしまった。

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 今日もカワセミを見た。立ち止まって見ていた5分ほどの間に、4回ダイブして2回成功したから、成功率5割か。

 行き交う人は誰も気づかないと思ったが、最後にすれ違った犬連れの御夫婦が立ち止まった。奥さんのほうが「脅かさないで。写真撮るから」と言って御夫君と犬とを制し、小さなカメラを向けていた。

 やっぱり「渓流の宝石」カワセミは、野鳥界のスターだ。わたしが初めて見たのは和田堀公園近くの善福寺川(杉並区)だし、江戸城のお濠で見たこともあるから、決して深山幽谷の生き物ではないし、多摩に来てからはしょっちゅう見ている。それでも見る度に新鮮にうれしい。

 飛んでいく後ろ姿の青が鮮やかで、すれ違って一瞬見ただけでも、はっとする。

なぜあんな色なんだろう。

 

 

 

 

●12月27日(火)

 すもももももももももも

 すもももももももものうち

 

 などと、以前よくワープロをいじめて遊んだけれど。

 

 去年、到来物の桃を食べたら、口の中がかゆくなった。

 そういうアレルギーがあるらしいと知ったが、桃など自分で買って食べる物ではないので、そのまま忘れていた。缶詰やゼリーなどの加工品では症状が出なかったので、なおのこと、すっかり忘れていた。

 ところが、今年になってプラムを食べたら、またかゆくなった。なるほど李も桃であると納得したが、プラムも別に食べなくても生きていけるので、「ちょっと残念」くらいにしか思わなかった。

 

 ところがところが、秋になって一気に暗転する。

 りんごでかゆくなった。イチゴのアイスクリームでもかゆくなった。

 どうも、桃、りんご、苺ともバラ科という共通点があるらしい。

 

 りんごも桃もいただくことが多いが、これは煮れば食べられる。今までも、多すぎて食べきれないときは、そうしてきた。

 けれどイチゴは? イチゴが食べられないということは、ケーキはどうなる?

 

 不安がって気に病んでいるのもいやなので、アレルギー科を謳う近所の医院へ行ってみた。

 何のアレルギーがあるのか血液検査で分かるだろうと思ったのだが、何が悪いか分かるというものではなく、個別に調べるそうだ。血を採るのは一回だが、個別に、りんごはあるか、桃はあるか云々と、当たっていくのだとか。「どれにしますか?」とリストを見せられ、「保険でできるのは21まで」と言われたが、訳が分からない。とりあえず、症状の出ているリンゴ、桃、イチゴ、スギ花粉と、勧められるままにヒノキ花粉、ハウスダスト、ダニの7種を頼んだ。

 そして結果を聞きに行くと、先生はいきなり、「立派なものです」と。全部、ダメ。イチゴだけ「微妙」(疑陽性)。スギに至ってはレベル6までのうちのレベル5。

 先生は気の毒がってくれて、「桃もリンゴも喰いたいよねえ」と。

 そして抗アレルギー剤を処方してくれた。飲み方は自由だと。旅行や食事会などの前、出されたら食べたいときに飲みなさいと。

 

 かくて、わたしの人生からイチゴのショートケーキが消えた。

 いいもん。チーズケーキだって、チョコレートケーキだってあるもん。

 でも、本郷のケーキ屋さんで買ったフルーツロールケーキを食べたら、生の桃が入っていたらしく、症状が出た。気をつけないといけない。

 

 水俣病センター相思社から買う、低農薬栽培の紅玉を丸かじりするのは、とっても幸せだったのに。

 食べきれなかったリンゴを煮るときに、刻んでお鍋に入れながら、ちょこちょこ口に放り込むのも、大好きだったのに。

 

 もちろん、果物ならまだましなのだ。避けようと思えば避けられる。卵や小麦、大豆などのアレルギーの人は、どんなに大変だろう。

 医院で見せられたアレルゲンのリストには、オレンジやホーレン草もあった。そんなのも辛いだろう。

 

 もっとも、この先どんなアレルギーが出るか、分からないらしい。たくさんあるアレルゲンの内、今回調べたのは7つだけなので、ほかのが大丈夫という話ではない。

 非特異的IgEというのが、基準値をはるかに越えていて、立派にアレルギー体質だそうだ。

 これ以上出ないで欲しいと祈るだけだ。

 

 なお、先生は何もおっしゃらなかったが、ついでに出ていた数字によれば、依然として貧血だ。

 無駄に元気な健康体のつもりだけれど、あちこちボロが出ている。

 

 

 

 

●12月31日(火)

 李も桃も桃のうち

 李も桃、桃も桃

 

 10月末に夫が高血圧との指摘を受けてから、色々研究して減塩生活を送っている。

 その甲斐あって、ここのところ何とか、正常値の上限くらいの値を続けている。

 このままずっと、この生活を続けねばならない。わたし自身はもともと薄味で、夫はいつも食卓で塩や醤油を足していた。それを止めさせられた夫は辛そうだが、こればかりは慣れてもらうよりほかない。

 それはよいのだけれど。

 困ったのは、この正月だ。日本の正月というのは、塩の塊だ。保存食なのだから仕方ないが。魚卵は論外だが、お煮しめなんかも結構な塩分だ。蒲鉾その他の練り物も然り。夫が好きで毎年大量に作る豚の佃煮も。

 もともと二人きりの正月で、例年大したものも作らないのだけれど、それにしても困る。

 どうせ元日からスーパーも開いているし、普通に毎日おさんどんするしかないと思っている。

 

 

 

 

 

 

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