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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2011年10月 2日 9日 11日 14日 27

 

●10月2日(日)

 先日の晩、パソコンの前に座っていた夫が騒いでいるので、何事やらんと駈けつけたところ、二人して騒ぐことになった。

 

 大げさに言えば、日本文化の悲しい性質について。

 

 なんのことはない。YouTubeをぱかぱかやって、色々な真言やお経の類を、サンスクリット語や中国語ので聴いたのだ。

 これがえらい衝撃だった。全部、歌なのだ。それも、明るく楽しく気持ちのよい歌なのだ。

 

 例えば不動明王真言とか、光明真言、般若心経などは、魔物や邪霊などを祓うのによく使われる。わたしも光明真言はたまに唱える(お不動さんはちょっと苦手で、御心経は覚えていないので)。御心経はともかく、不動明王も光明真言も、叱りつけ脅しつけて退散させる感じだ。ところが、このとき見つけたものは、どれもなごやかだった。とにかく明るくきれいな旋律で、とても心地よい。魔に対するにしても、決して威嚇するのではなく、「いい子だからね、悪さしないのよ」と諄々と説いて納得の上で去らせる感じ。そう言えば、原始仏典に出てくる悪魔は、えらく平和的で解りがよかった。

 あの楽しさは、お不動さんの恐ろしい御像とは、どう考えてもそぐわない。不思議な気がした。

 

 お念仏もそう。「ナモ アミターパ」とひたすら繰り返すのは、漢字を当てれば「南無阿弥陀仏」で、要するに念仏一会なのだけれど、これも滅法明るい。楽しい。あの地の底を這いずるような、どろどろどろどろと湧き上がるような、そして時々不意に天に揚がるような、けれどもやっぱりどろどろと重たい、慣れ知っている念仏一会とは全く違う。

 考えてみれば、光り輝く浄土に阿弥陀さまが連れて行ってくださる、そのために一心に御名を唱えているのだから、明るいのは当たり前か。

 

 漢訳の普門品偈もよかった。予想通り、「念彼観音力」の繰り返しが耳に残る、優しい歌だった。これはわたしの大好きなお経で、「どんな恐ろしいこと、辛いことがあっても、観音様の名を呼べば大丈夫」。

 この歌を聴いていると、本当に「大丈夫よ」と言ってもらえている感じで、うれしくなる。

 

 そんな個々のことは本当はどうでもいい。ショックだったのは、わたしたちの文化というのは何なのか?ということ。

 

 いつだったかのライブで宮本が、「この国は縄文時代から、海の向こうから来たものが大好きなんだよっ! ポンニチ人だから!」と嫌ったらしく叫んでいたけれど、そうしてありがたがって頂戴してきた外来文化は、本当に頂戴できていたのか?

 

 6世紀に「すばらし験力を持った外国の神」として仏教を受容したわけだが、それは果たして仏教だったのか。

 短期滞在で多くのものを持ち帰った弘法大師は確かに天才で、智力も記憶力も常人とはけた外れだったのだろうけれど、それでもやはり急ぎすぎて、肝腎なところがこぼれ落ちてはしまわなかったか。

 そして明初に至るまで多くの僧侶が中国へ渡り、何年、何十年と現地の寺院で暮らした者も少なくなかったが、彼らが身につけて帰ったものは、この国でどれだけ受け入れられ消化されたのか。

 

 なんか、寂しいのだわ。日本のお経は単調で抑揚が少なく、おんどろどろと暗い感じで、楽しくない。

 声明なんかは美しいと思うが、本当は全てのお経がああだったのではないのか?

 声明は口伝でしか伝えられない(楽譜がないから)。文字に書かれたお経のほうが、圧倒的に普及力は強い。

 そして、これぞエッセンスと思ってありがたがってきたものは、実は骨と皮だった。温かく滋養に富む肉や血は、東シナ海を渡るときに落っことして来てしまったのか。その落っことした部分こそが、一番大事なところだったのかもしれないのに。

 

 よろず、そうなんじゃないか?

 もちろん、それが悪いとばかり言うつもりではない。木に竹を接ぐ直輸入ではなく、日本の風土・文化の中に消化吸収したのだから、それこそが真の受容だとも言える。

 

 でも、なんかねえ。

洋楽ファンの中には、「歌詞はいらない」と言う人もいるけれど、でも本国の人たちは当然歌詞もひっくるめての曲なりサウンドなりを聴いているわけで、だからそれはやはり妙ちきりんなことだ。

 

わたしたちが朗読する漢詩は、とても格調高い響きでかっこいいけれど、本当は詩はそんな風にごつごつしたものではない。中国語で読む詩は、ゆったりと滑らかな歌だ。

大学で中国語を教えてくれた先生が、詩吟が趣味だとおっしゃって、披露してくれたことがあった。教科書にあった李白か何かだったけど、抑揚の大きい、ゆーっくりとしたものだった。

 

何が言いたいのか分からなくなってきたけれど。

 

わたしたちポンニチ人が古来ありがたがってきたものは、実はアボカド寿司だったかもしれない?

 

それにしても。

お経は中国にとっても外来品だが、中国でもちゃんと歌っている。たぶん、中国風の曲で。なのにどうして日本では、あんなに単調なのか。

朝鮮半島では、どうなのだろう? 東シナ海ルートが栄える前は、朝鮮経由で来ていたはず。韓国の仏教事情も知りたい。

 

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 金木犀で脳が融ける。

 

 

 

 

●10月9日(日)

 明日は双十節!

 まだまだずっと先だと思っていた辛亥百年!!

 

 どうしよう。

 

 こういうとき、どうしても「馬齢」という語が頭に浮かぶ。

 志士のお兄さんたちを知ったとき、彼らはみな(鄒容と劉道一君と以外は)ずっとずっと年上だった。

 

 それが今はどうだ。星台先生も遯初君も、篤生までが年下になってしまった。それどころか黄興さんもコ鄰も。そうこう言っている間に昌済先生の没年齢にも達してしまうよ。

 まあ、章行厳先生はまだまだだけれど。

 でも彼にもいずれ追いつくのでないか。彼は数えで九十三。わたしの祖母は百歳四カ月で亡くなる一週間前までぴんぴんしていたし、曾祖母も九十歳を越していた。わたしは祖母と似ているから、放っておいたらいつまで生きるか、考えるのが恐い。

 

 そんなことはともかく。

 

 辛亥100年ということで、文章を一つ書いてみた。明日付だが、フライング気味に23時に上げてしまった。

 TVのニュースで彼の国の辛亥100年の式典について報じていたが、辛亥自体よりも「一時死亡説も流れた江沢民が生きていて出席した」というほうが主だった。

 そんなものか。どうせ、100年前の他国の革命なんて、どうでもいいんだ。

 

 

 

 

●10月11日(火)

 たった今知ったのだけれど、ジャッキー・チェンが黄興さんの映画を作ったって!

 黄興さんが主役!!

 「悲劇の英雄」としてらしいけど。黄華崗が中心なのかな。

 

 ジャッキーは辛亥には詳しくなく、孫文しか知らなかったらしい。黄興さんについては存在すら……。

 でも、勉強して、大いに入れ込んでいるようだ。

 

 黄興さんが、あの黄興さんが主役だなんて!!

 うれしい。ほんとに、うれしい!

 

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『朝日新聞』の夕刊で「辛亥革命と日本」なる連載を始めた。(上)とあるから、3回か?

 そこにいきなり、黄一欧君の写真が!

 一欧君の写真は初めて見た。

黄華崗に際し、外国人の荷物の方が検査が甘いからと、宮崎竜介を装って一欧君が武器を持ち込んだのだとか。この逸話は知らなかった。

 

一欧君は宮崎家に預けられて、そこから小学校へ通っていたはずだ。黄興さんに頼まれて、遯初君が漢文を教えに行ったこともあった。

黄華崗の時、一欧君は18歳。その後、夫妻で米国へ留学した。黄興さんが、子どもたちの留学費用が云々と、こぼしている書簡が残っている。

 

 記事に逸話と写真とを提供したのは一欧君の息子さんで、長沙にお住まいだそうだ。73歳というから、わたしの父よりよほど若い。

 

100年というけれど、そんな近い過去の話なんだ。

 

 

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 御茶ノ水駅前に地井さんがいた。『ちい散歩』のロケだ。色々な撮影が行われる街で、TVカメラは珍しくないけれど、さすがにちょっと驚いた。

 都会人の常で、みな見て見ぬ振りして通りすぎていた。わたしは改札へ行くには地井さんの後ろを通らねばならず、映ってしまいそうなので、できるだけ大回りして小走りに行き過ぎた。

 

 

 

 

●10月14日(金)

 『朝日新聞』夕刊の「辛亥革命と日本」は昨夜で完結。不満はなくはないが、概ね良い記事だった。

 驚いたのは昨夜の分。文革中の志士及び遺族のこと。辛亥は「国民党の革命」「ブルジョア階級による革命」ということで、ひどい目にあったそうだ。

黄興さんを「軍閥」呼ばわりとか。軍閥?! ばかなことを。ということで、一欧君の息子さんも大変な苦労をされたらしい。

 

意外だった。そんな具合なら、まさに国民党をつくった張本人である遯初君なんて、どうなるか。わたしも実際に古い本で見たことがある。「議会迷」とか何とか、ひどい言われようをしていていた。ブルジョア民主主義、議会主義ということで、「悪い奴」扱いだった。それで、以前紹介した古老の「宋教仁は袁世凱の独裁に反対して死んだのに、なんでこんなにひどい扱いをされねばならないんだ」という涙の訴えになるんだね。

 

 だけれども、黄興さんもというのは、驚いた。

孫文と対立し議会主義の代表者のような遯初君はともかく、ほかの人は、湘人ならば大丈夫じゃないかなどと、ちょっと思っていたから。

例えば劉揆一は毛沢東の同郷の先輩ということで、「霖老」と呼ばれて敬われていたという。

また章行厳は、自身が文革期にも存命だったが、『柳文指要』は問題にされつつも出版されているし、なにより亡くなる時の逸話がふるっている。

92歳の行厳は、急に香港に行きたいと言い出す。長途であることと、北京と香港との気候の差とから、とても身体が耐えられまいと、家族は反対した。が、聞くような人ではない。そこで家族は周恩来に説得方を依頼したが、この頑固なじっさまは周の言葉でも動かない。そこで毛沢東に持ち込むと、毛は「あのじっさまを動かすことは誰にもできないよ」と言い、政府専用機に医師団・看護師団をつけて送り出した。けれども結局は無理な旅で、そのまま香港で死去……。

 

 行厳は不思議な人だ。

 魯迅なんかには、ひどい言われようをしているけれど、そんな悪い奴ではないと思う。

 

 

 

 

●10月27日(木)

 陰暦十月一日。

 楊篤生の生まれた月。

 あまり幸せな生を送った人とは言えないけれど、それでもやはり、「おめでとうございます」と言っておく。彼がいなかったら、中国近代史はちょっと違うふうになっていた。それは確かだと思うから。

 

 彼の「記英国工党與社会党之関係」について何か書きたいのだけれど、まだ書けない。

 

 

 

 

 

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