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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2011年7月 10日 17日

 

●7月10日(日)

 心身ともにどうも不調で、生活だけで汲々としているうちに日が経って、梅雨が明けてしまった。

 太陽ギラギラビルの谷間〜♪。日射が兇暴なので、日傘を新調した。本当かどうか知らないが遮光率の高さを謳っている黒いのを買って、これを職場に置いて昼休みの散歩用にし、今までそれに使っていた紺色のを自宅用、自宅用だった象牙色のを予備にする予定だった。

 ところが、今朝の散歩に象牙色のを持って出たら、させない! 開くには開くが、折りたたみの柄が伸びない。無理に開いても柄が伸びなければ、冗談みたいな格好だ。

 夫のばか力でもだめなので、二人がかりで引っ張ったら、すっぽ抜けてしまった。

 やはり、次のを買ったので拗ねたのだろうか。家電は、買い換えたり買い換えの相談を始めたりすると、古いのが壊れることがよくあるが、こんな傘でもそうなのか。

 ごめんね、君はかわいくて好きだったよ。と謝って、市指定の不燃ゴミ袋へ入れた。

 

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 いま気になっていること。

 維新運動時の不纏足会。

 女子教育の目的、熱心だった層、地域。

 

 楊篤生は湖南不纏足会の発足時の理事だったから、もちろん長女の克恭は纏足していなかったはずだ。

 彼は女子教育にも熱心で、娘の婚姻の際にも、勉学を続けるようにと英国から手紙で指示している。先方も息子の嫁の勉学を承知しているはずだからと。

 つまり、張堅と楊克恭との結婚というより、張家の息子と楊家の娘との結婚という感じが強い。克恭は数えで十七。婿さんは北京の清華学校で米国留学の準備中の学生さん。やっぱり親どうしで決めた話だろうな。

 

 

 

 

●7月17日(日)

 公園でホトトギスを聞いた。渡りの途中に通過したのではなかったのか? まさかこの地で繁殖するのか? としたら、被害者は誰だ? 

 

 母の実家は福島県にあった。

 外祖父は岩手県人、外祖母は東京育ちの岡山人だが、敗戦後に外祖父が朝鮮から引き揚げてきて職を得たのが福島県南部の小さな城下町だった。既に成人して家を出ていた長男・長女を除く子ども3人との5人家族でその地に落ち着き、末子であった母は結婚で上京するまでそこで過ごした。

だからそこが、わたしにとっての「お祖母ちゃんち」だった(外祖父はわたしが8歳のときに他界)。子どものころは、たぶん毎年、夏休みか正月に遊びに行ったと思う。

 外祖母はきれいな東京弁しか話さなかったが、母の次姉と次兄とはその町で成人して土着したので、彼らもいとこたちも土地の言葉を話した。学生のときのクラスに、一山越えた栃木出身の人がいて、あの高い調子が同じだったので、懐かしく思った。

 いとこが、伯母の家と伯父の家とで合わせて6人くらいいたので、ときには3家族と祖母とで旅行したこともある。と言っても小さいときだから、わたしとしては訳も分からず車に乗せられ、どこかへ連れて行かれたというだけで、断片しか憶えていない。

 旅館でいとこたちとトランプのルールをめぐってもめていたら、誰か大人が窓の外を指して「ほら、あれが磐梯山だよ」と。「バンダイ」っておもちゃじゃないの?と不思議に思った記憶がある。

 那須の南ヶ丘牧場では馬だかポニーだかに乗せられたはずだが、憶えているのはピロシキを食べて気持ち悪くなったことだけ。胃腸が弱くて油っこいものは苦手なのだ。この牧場は満洲から引き揚げて来た人が入植し開拓した所で、ロシア人仕込みのピロシキが名物だということで、食べさせられたのだと思う。

 常磐ハワイアンセンターにも行ったが、憶えているのは、薄暗いところで、たいまつみたいな火が焚かれ、音楽がドンドコドンドコ鳴る中、パイナップルの載ったハンバーグを食べたことだけ。

 そして、いわき市の勿来。勿来の海にはよく泳ぎに行った。ひょっとしたら、千葉や伊豆の海よりも勿来の方が、泳いだ回数は多いかも知れない。砂が軽いのか、舞い上がりやすく、すぐに砂まみれになってしまって難儀したのを憶えている。

 

 その勿来は、今年は泳げないらしい。放射性物質の関係とかで、市が早々に今年度開設しないことを決めたとか。

 一体、何がどうなっているのやら。何をやらかしてしまったのか。

 

 

 

 

 

 

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