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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2011年4月 1日 5日
●4月1日(金)
情緒不安定な日を送っているうちに、言いたいことがたまったので、思いつくまま並べてみる。
★原発がかなり由々しき事態に陥っているということが明らかになってきたころだったか、カスタネッツのドラマー・溝渕ケンイチロウ君が、このくらいの放射線でガタガタ言うな、という意味のことを書いていた。被爆3世の彼は、ずっと服薬しているし、検診も受けている。彼の祖父母が浴びたものに較べれば、いま問題とされているのなんて微々たるもので、ケンイチロウ君が苛立つのも無理はない。
東京辺りに住んでいて騒ぐのは、何かとても失礼な気がする。何に対してか分からないが、とっても失礼な気がしてならない。
赤ちゃんのいる人は心配だろうけど、でも何か釈然としない。
ガタガタするな! って言う権利を、ケンイチロウ君は確かに有していると思う。その辺が、この気持ち悪さの鍵かもしれない。
★原発については、昔々のわたしは、核兵器は論外だが核の平和利用ならいいんじゃないの?くらいに思っていた。
大学の1年生か2年生のとき、地理のレポートを書くのに開発の問題を探していて、たまたま図書館で能登の火電に関する本を見つけ、そこからごそごそと探っているうちに原発にたどり着いたように記憶している。
その後、別ルートで高木仁三郎さんの本に出会い、原発は絶対にいけないと考えるようになった。
とはいえ、あれはいけないと仲間内で言っているだけで、具体的には何もしてこなかったじゃないか……と思ったが、思い出した! ちょっとだけだけど、運動に参加していたことがある。
どういうわけか知らないが、親がわたし名義で買った東電株があった。で、案内が来たので、反原発の株主運動に賛同したのだ。といっても、毎年の株主総会のときに反原発派の株主たちの提案に投票するだけだけで、総会に出席したことは一度もない。それでも、そういう形で意志表示はできた。
原発で事故を起こせば株主にも不利益になる、というのが株主運動としての建前だったわけだが、いま本当にそういうことになっている。だから言ったのに、なんて言いたくないけど。
会社としては、金銭で片づけられない厄介な総会屋、くらいに思っていたのだろうな。
その後いろいろと整理したときに、その株も売ってしまったけれど、確かに何年間かは運動に加わっていた。消極的で、微力もよいところだけど。
★学生時代から結婚後数年まで、主に日本の近代に関して濫読した。その中で思ったのは、筑豊について取り組んでいる人は、筑豊の中に日本の近代は全て入っていると言い、水俣のことをしている人は水俣の中にあるといい、足尾の人は足尾に、沖縄の人は沖縄に、女性問題の人は女性問題に、乱開発の人は乱開発に……。
共通しているのは、弱者に負の部分をおっかぶせることで成り立ってきたのが、日本の近代だということ。
はじめに書いた気持ち悪さも、この辺に関わってくるのかもしれない。
原発なんていう危険物を、東電管内ではない福島県に押しつけて、その電気を使いまくっている。
それでいて、このくらいでギャーギャー騒ぐ。地元の方々は、そんな程度ではないのに。近くの人は故郷を追われ二度と住めなくなるだろうし、その周縁の方たちは、畑や酪農ができるかどうか、難しいことになってしまっているのに。
★1923年の震災後、天罰説が流れた。欧州大戦で、漁夫の利というか火事場泥棒的に儲けた成金が多数発生したことによる、軽佻浮薄な世相に対する天罰だとか。それに対し激怒した柳田国男の文章を読んだことがある。20年以上前、ひょっとしたら学生のときに読んだので、題名も分からず、詳細もあいまいだが。
柳田が言うには、震災で亡くなったのは、大部分が庶民である。つましく生きている庶民であり、戦争成金ではない。なぜ、金持に教訓を与えるために、貧しい人々が死なねばならないのか。民の命は、偉い人たちのためにあるのか? ……
これを読んだとき、なぜだかとても悔しかったのを憶えている。そして柳田をとても好もしく思った。なにが悔しかったのか。たぶん、天罰説を唱えた連中に対する怒りを、どこへ持って行けばよいのか分からなかったからだと思う。もちろん、連中には既に柳田が反論してくれている。でも、そういう発想をする人間がいるということ自体が、許せなかった。そういう考え方が生じること自体が、我慢ならなかった。
この世には主人公と脇役とがいて、脇役は主人公のためだけに存在する。そういう考え方は許せない。誰だって、たとえ生まれてすぐ死んでしまう子であっても、その人の人生においてはその人が主役だ。逆にどんな偉い人だって、ほかの人から見たら脇役なんだ。
偉い人から見たら虫のように見えても、一人一人に人生がある。何年か何十年かの歴史があり、家族があり、幸不幸、喜怒哀楽、色々あって生きてきた人間だ。なんで、金持に教訓を与えるために、彼らが死なねばならないのか。そんな道理がどこにある。
なんか、書いていて泣けてきた。やっぱり悔しい。
★なんで近代史の負の側ばかり見たがるのか。別に「自虐」でも何でもないさ。お育ちが悪いのさ。家庭内専制のせいさ。
★最後にもう一つ。
日曜日(27日)にフジテレビでやった音楽番組は、一体なんだったのだろう。エレカシが出るというから録画したのだが、あれは全く不思議なものだった。
台所でごはん作りながら、ふと思って居間へ行ってTVをつけたら、ちょうど宮本がいた。そこで、キンコンキンコンと緊急地震速報。おかげで口上は聞けなかったが、曲は聴けた。この間の悪さ、しかも速報は誤報(震度2だった)。宮本らしい。
肝腎の演奏は、もちろんよそ行きだが、丁寧で声もよく出ていて、巧さ、美しさが、よくあらわれていた。TV出演には珍しく、保存の価値ありだと思った。
問題は、番組の終わりの、出演者全員での歌。みんな嬉しそうに楽しそうに歌っているのに、宮本だけうつむいて、手拍子もおざなりだった。その一角だけ暗黒星雲が覆っているようだった。
なんで俺はここにいるんでしょうね。というところだろう。なんでみんな、こんなに楽しそうにお祭り騒ぎをしているんでしょうね。これは何の集まりなんでしょうね。
募金目的ならそれもよいかもしれないが、歌で元気に!なんていうのなら、それは宮本慎也も言うように、まだそんな段階ではないし、傲慢だ。
そんなところだろうか。
なんとも居心地の悪いものだった。あのキンコンキンコンは、その顕れだったのか。
●4月5日(火)
宋遯初先生、生誕129年。
なのだけれど。
調子が戻らない。いつの間にか季節は進んで、辛夷や木蓮がきれい。市ヶ谷のお濠の桜も、だいぶ咲いてきた。昨日は湯島聖堂で杏を見た。
きれいな季節だ。
彼女のお庭が彩られる日が、一日も早く来ますように。