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多摩丘陵から 〜日記のようなもの
2010年8月 1日 4日 5日 13日 26日
●8月1日(日)
八月に入ると緊張する。八月五日が近づくから。
今年で99年。つまり、百回忌か。
誰も何もしないのだろうか。子孫の方がいるのなら、何かしてほしいと思うけれど。
このまま忘れられた革命家でいて、よいわけない。彼の思想家としてのすばらしさを、誰かちゃんと評価してくれないか。ほとんどオーパーツじゃないかと思う程、ちょっとどうかしているところのある人だ。それをきちんと証明できない己が無力さがもどかしい。
今朝は5時半頃から散歩。あまり歩いたことのない道を行き、初めての公園に入った。この公園も、多摩丘陵のかけら。鬱蒼とした木立と、草むらと階段の世界(「草むら」を「叢」としたかったのだが、ATOKでは出なかった。あまり一般的な用字じゃないのか)。せまい段々を上っていくと、団地群を見下ろせる。この辺りの公園は、みんなこんな感じだ。ウグイスやアカハラがにぎやかだ。ヒヨドリが三羽、空中戦を演じていた。千歳村ではヒヨは夏にはいなかった。山へ避暑に行き、セミを追っかけ回して喰っているのだと思っていたが、つまりここが山なのか。
昨日は夕方から市の図書館へ行って、仏書を借りてきた。先日、暑さにめげて逃げこんだ東京堂で見て、心ひかれた書だ。買っても読めない可能性が強いので、あとで検索したら一番近い図書館にあったので、ラッキー!と。理解する能力はほとんどないのに、読みたがる。どうせ解りっこない。でも、ちょっとでも解りたい。ああ、ヴァスバンドゥさんの爪の垢でも煎じて飲めたら。
なお、神保町の新刊書店では、わたしは東京堂が一番好きだ。学生時代から、なんか知らぬが好きだった。文学に力を入れていて、個人全集なんかがどどーんとあるが、わたしは仏書の充実ぶりに舌を巻いている。ほとんど仏教系大学の図書館並みじゃないだろうか。誰が買うんだ、こんなもん。
その東京堂書店は、創業120年だそうな。1890年の創業。ということは、留学生の皆さんも足を運んだ可能性が大だ。そう思うと、なおのこと愛着が湧く。
同じ理由で淡路町の近江屋洋菓子店もよい。ここは1884年創業。元は洋菓子よりもパンが主だったそうだけれど、留学生の皆さんも、西洋の香りを求めて、アメリカ仕込みの近江屋さんのパンを買ったりしなかったかな、と。
なお、わたしはなぜか学生時代に「おいしいパン屋さんがあるよ」と友だちに連れて行かれたのが最初。確かにパンもあって、お昼時には近隣の勤労者諸君が多数買い求めているけれど、やはり中心はケーキでしょうに。
時制があっちゃこっちゃして、我ながら支離滅裂の文章だ。
暑さのせいと、堪忍してください。
●8月4日(水)
8月4日。
99年前の今日、楊篤生はアバディーンを発つ。翌朝リヴァプールに着くまでの間、夜汽車に揺られて彼が何を思っていたのか、わたしには分からない。発つときからそのつもりだったのか? 貯めていたお金をみな、リヴァプールで為替にして故国へ送っているようだから、そのつもりだったのか。でも、本当は帰るつもりだったのかもしれない。遺書を書いたのはリヴァプールでのようだから、帰りたいが帰れないのを分かっていて、それでもリヴァプールまで行ってみて……ということか。
わたしの力で読み切れるか自信はないが、今ひとつの文章を読み始めている。最晩年の文章だ。「論道徳」とともに、これが彼の到達点ということで。
●8月5日(木)
八月五日。
百回忌だ。百回忌。
誰も何もしないのか?
子孫の方は? 克念君のお孫さんでもいないかしら。
リヴァプールの華僑の人たちは、今もお祀りしてくれているのだろうか。
きっとそうだよね。長沙でも、リヴァプールの墓前でも、お祀りしてくれているよね。
わたし一人が騒ぐのでは悲しすぎるもの。
ともあれ、留学生会館の前で御心経を読む。ほかにゆかりの場所を知らないから。強いて言えば早稲田だが、行っていられないし、行ったところで広い構内のどこにすればよいやら。
恐ろしいほどに強烈な陽射しの中、歩道に背を向け、日傘に隠れて、早口で読む。かなり怪しい姿だ。せめて諳んじていればと、毎年同じことを思う。
読むのは一回だけにして、図書館へ移動する。生半可なわたしのたどたどしい読経より、彼の文章を読むほうが、はるかに供養になるだろう。爆弾抱えていたとはいえ、何より彼は文の人だ。
難しいのだけどね。中国語の特徴で、同じ文をちょっとだけ変えて何度もくり返すから、書き写す段階で既に間違えているし。
それでも読めるだけ読もう。彼が一字一字書いたのだと思えば、一字一字写そう。きったない字で申し訳ないけれど、わたしのせめてもの気持だ。
●8月13日(金)
カスタネッツのドラマー、溝渕ケンイチロウ君は、広島人だ。
彼は被爆三世だそうだ。お祖父さんの家は爆心地近くで、今は平和公園の中になっているとか。そしてケンイチロウ君は、お母さんと同じ病気を抱えていて、毎年検査を受けているそうだ。
わたしは去年、彼のブログでこれを知った。ショックだった。
わたしは「戦後」の子だ。小さいとき、池袋の駅前に「傷痍軍人」がずらりと並んで楽器を弾いていたのを憶えている。だらしない格好をしたり、食い意地を張ったりすると、「浮浪児みたいに!」とか「欠食児童じゃあるまいし!」と怒られた(いま思うと、ずいぶんと心ない言い方だ。浮浪児も欠食児童も、かわいそうな被害者なのに)。そして、父の兄は上から三人が出征し、長兄は戦死、次兄はシベリア抑留で辛くも生還した。
でもそれらは、言ってみれば「傷痕」であり、過去のことだ。わたしは「戦後」の子だ。
けれども、ケンイチロウ君にとっては、戦争は今現在のことなのだ。私より七つも若い、70年代生まれの彼が、今のこととして日々不安を抱えて生きている。
彼は訴えている。抑止力だとか原爆が戦争を終わらせたとか言う「政治屋」どもは、資料館を見たのかと。見た後でまだ同じことが言えるのなら、そいつはもう、人間ではないと。
そしてまた、未だに核兵器廃絶を訴えねばならない現状に対し、「なんなんだよ。何をしてんだ? 俺らは。」と、自分の責任についても。
被爆された方々が高齢化する中、幼時に耳を覆いながら祖父母(故人)から聞かされた話を、伝えていくのが三世たる者の務めではないかと。
毎年ブログに書くだけでも、それは一つの活動だと、わたしは思うけれど。
ふだんの彼は気のいい青年で、幾つものバンドを抱えて精力的に活動している。そんな不安を抱えて生きているとは、ちょっと思えないくらいだ。
彼の名の「健」の字には、お母さんの祈りがこめられているのかもしれない。
●8月26日(木)
今週は暑くて歩けないので、昼の散歩は諦めて図書館へ。そのかわり、坂だの階段だのを、えっちら登っている。
楊篤生の文章を読んでいたら、売国奴の代名詞として李完用が出てきて、ぎょっとした。1911年の文章だ。これが中国史上の人物、例えば呉三桂とかなにかだったら、なんとも思わなかった。李完用が出てくるところに、彼の生々しい「今」を感じさせられたのだ。
実際の話、中国の数千年の歴史の中の誰彼を引き合いに出すのは、伝統的な文章の型だ。近代にはそれに、西洋のワシントンだのガリバルディなんかも加わる。
けれども李完用となると生々しすぎて、それらと同じようには感じられない。彼の抱いていた、強烈な痛みを伴う危機感が思われて、それでぎょっとしたのだ。
そんな文脈の文章ではなかったのだけれど。
つとに『新湖南』のときから、彼は帝国主義を恥知らずの強盗主義と難じていた。彼は、英国も米国も民主政治の先輩としては学ぶべきでも、それ以上のもの、崇めるべきものとは考えてはいない。まして欽定憲法の日本など、ちゃんちゃらおかしい。
時々あるんだ。生身の彼を感じてどきっとすることが。
オープンキャンパスとやらで、子どもたちがうようよいる。図書館にも入りこんでいるが、閲覧席には入らぬようにとの掲示があるためか、書架の間でうろうろしている(着席してお喋りしていた子たちは、職員に排除された)。
閲覧席は、夏休みの真っ最中にもかかわらず、案外な数の人がいる。涼みに来ているのもいるだろうけれど、大方は真面目に勉強しているようだ。今日は我等は展示物。「真面目で勉強熱心な学生たち」の見本ということだろう。おばさんが交じっていてごめんね。
そろそろ9月になるのだし来週には歩けないかと思うのだが、週間予報を見ると今週と同じような数字が並べてある。
歩きたいのにな。