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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2010年5月 4日 5日 15日 22日 30日

 

5月1日(土)

はなみずきがきれいだ。通り沿いに赤と白と交互に植えてあるのもよい。

 先日気がついたのだけれど、この辺りには日本タンポポが多い。公園で見ると、ほとんどがそうだ。西洋タンポポが、かえって珍しいくらい。ずっと以前に何かで読んだが、西洋タンポポが日本タンポポを駆逐したのではなくて、日本タンポポが滅んだ跡地に、西洋タンポポが生えただけだとか。

 別に競合しているわけじゃないんだよ、と。なるほど一緒に咲いているわ。

 

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 ブログを書いてらっしゃる方の中には、宮本を仮想恋愛の相手にして、愛を語っていらっしゃる方もあるとか。

 わたしも人のことは言えない。

 常日頃、ほぼ無意味に歩き廻りながら、先生、先生と呟き、千代田区神田駿河台2−3の池坊お茶の水学院の前を通るときは「先生お早うございます」とこっそり頭を下げる相手は、もちろん生け花の先生ではない。神田区駿河台鈴木町18番地を発行所として『游学訳編』を出していた楊篤生だ。

 

そして妄想ついでに、夫人をも勝手に儷鴻姐と呼んで慕っている。彼女の生没年は分からない。胸を患ってしまったから、ひょっとしたら不幸にも現在のわたしの年齢まで生きていなかったかもしれないけれど、そんなことは関係なしに、敬愛する意味で「姐」と呼ばせてもらっている。おねえさま、と。

あの難儀な御仁に添うた方だ。子があったからよかったものの、なんという結婚生活だ。一緒に暮らした時期など、ごくわずかだろう。

いつ結婚したのか知らないが、静児の生まれたのが94年。日清戦争(94−95年)の頃は既に校経書院で学んでいて、それから97年くらいまでは校経にいたわけだから、一緒に住んではいない。ちょくちょく帰っていたとしても、長沙の城内から高橋までは、ざっとみて40キロくらいはありそうだから、そんなにまめに帰れたかどうか(交通手段は何?)。うー。子どもたちを長沙の学校へ入れるよう指示する手紙で、心配なら毎週末に轎(かご〜と言っても日本のみたいに提げる形でなく、御神輿みたいなの)を迎えにやればよい……と言っているから、そのくらいの頻度で帰れたのか? 

その後、変法運動で活躍していた98年には、あるいは夫人を呼び寄せていたかもしれないし、政変に際しては故郷に難を逃れたというから、この時期は一緒に暮らせていた。得児が生まれたのは98年か99年だからこの時期だ。でも99年には江蘇の学政の幕下に入っているし、その後は龍家に身を寄せたりで、やっぱり落ち着いてはいない。

そして辛丑(01年)冬に七言絶句三章を夫人への置き土産として渡日した後は、帰郷したのは06年の4日間のみ。夫人に会ったのは、その4日間と渡英前に上海に呼んで共に暮らした日々とを合わせても、一カ月にも満たない(と篤生自身が書いている)。

あまりに薄い縁だ。それでも手紙のやりとりはまめだったみたいだし、その手紙からは愛情が確かに感じ取れるから、まあいいか。

ずいぶんな人だけれどね。みちみち細かく、ねちねちしつこい、目上にもつにはちょっとたまらない人だと思うけどね。

 

 

先日の新聞の万博についての解説記事で、1851年ロンドン博の主な展示物に「水晶宮」とあった。篤生が妻・娘・母に贈ったハンカチが、この水晶宮を刺繡した物だった。「Crystal Palaceというのは水晶宮のことです」と説明を添えて。

こういう“細部”がミーハー心をくすぐるのだ。

 

渡英の途次、パリで娼館に連れて行かれて、お化けみたいな白人の娼婦に目を白黒させたことは、儷鴻姐には黙っておきましょう。一緒にいた章行厳は文章に書いて呉弱男に怒られたそうだけれど。

 

 

 

 

5月4日(火)

 引越のときに書籍を大量に処分したため、何が残っているか分からなくなっている。納戸には書籍の入った段ボール箱が幾つもあって、何か欲しくなると、片端から開けてみなければならない。

 

 昨日、石川三四郎の評伝を発掘した。捨ててしまった組に入っていたものと思い込み、強く後悔していたので、うれしいというより、ほっとした感じだ。

 高校生のときに使っていた中野の古書店で、三冊揃いで買ったものだ。石川なんかに興味をもつのだから、買ったのはもちろん高校生のときではなく、大学5年か卒業直後くらいだろう。あの古書店はちょっとおもしろかったのだが、数年前に行ったらなくなっていた。伝説の喫茶店・クラシックももうないし、中野はわたしの町ではなくなっている。ブロードウェイの明屋書店だけは懐かしいけれど、ブロードウェイ自体があの頃とは全く別の世界になってしまっているから、何か心地が良くない。昔はただのショッピングビルだったんだよ〜。

 

 話が逸れた。この本を書いたのは、いわゆる郷土史家というのか、本庄の中学校の先生だ。それも、なぜか音楽科。でも日本の学問のある大事な部分を、こういう真面目な郷土史家、アマチュアの方々が支えているのは事実だ。分野は違うが、彗星や新星の発見なんて、アマチュアに任せられていると言ってもよいくらい。

 

 ともかく、この全三巻の伝記は、よくできている。大変な労作だと思う。第一、いくら郷土の人だからといって、石川三四郎なんかを取り上げるところが偉い。著者には感謝してやまない。

 

 石川三四郎について、辛亥革命マニアとして取り上げるべきは、やはり以下の件だ。ずっと前にも引用したような気がするけれど、気にせずに掲げる。

 

 1913年3月1日、石川は欧州へ亡命すべく日本を離れる。10年の大逆事件以後、社会主義は息苦しい状況〜というより、ほとんど窒息させられかけていた。

 で、その途次、「三月五日の朝九時、ポール・ルカ号は上海に着き、同地に七日の夜まで停泊した。この間に三四郎は、袁世凱の軍事独裁政権に抵抗しつつあった二人の革命家、黄興ならびに宋教仁と会見している。両人とも、数年前まで日本に亡命していたので三四郎とは旧知の仲であり、『玄関に飛んで出て、自ら私の外套をぬがしてくれた』というほどの歓迎ぶりだった。」

 以下、石川の「中国改革者たちの思い出」から引かれている。

 

 ――黄興の家を辞去しようとしたときも、二人は私を抱きしめて別れを惜しみ、外套を着せてから、また抱きしめるのであった。玄関警護の人たちも、あっけにとられていたようだった。さすがに私も、後ろ髪を引かれる思いがした。何ぞ計らん、私が上海を去って一週間めに、宋教仁は帰北の途につかんとしたところを、上海の停車場で袁世凱の手先に射殺されてしまったのである。私はそのニュースをポート・サイドの新聞で初めて知り、船中で悲嘆にくれた。

 

 黄興さんや遯初君と、石川という組み合わせは、ちょっとおもしろい。考えてみれば『宋教仁集』には大杉の文章を訳したものもあるし、不思議なことはない。けれども、どうも日本のアナキストとの関係というと、章太炎なんかのほうが前面に出て、こっちの人たちは思いつきにくい。

 それにしても、この箇所はいい! 人間関係をすごく大事にする人たちだというのは知っているが、こんなふうに具体的に書かれると、ありありと目に浮かんで、泣きたくなるほどだ。

 

 

 

 

5月5日(水)

 中野にあった名曲喫茶クラシックについては、何年か前にネットで検索したところ、閉店を惜しむ声、思い出を語る声がぞろぞろと出てきて、驚いた覚えがある。その筋ではたいへんに有名な店、「伝説の」店であり、行ったことのない人には「憧れの」店であったようだ。

 そんな「偉い」店とは知らなんだ。わたしが使っていたのは高校生のとき。ただの奇妙なサ店としか思っていなかった。子どもだったから、安い、食べ物の持ち込み可、何時間でもいられる、という利点をフルに活かしていた。定期テスト最終日などの学校帰りに、商店街でお菓子を買い(あの頃、コンビニなんて今ほどあちこちにはなかった)、二階の一番隅の席に陣取って、紅茶一杯だけで何時間もだべっていた。サ店とか、駄弁るとか、今では死語かもしれないけれど。

 照明が暗くて読書には向かないが、字を書くくらいはできるので、一時期は連歌に興じていた。「“座の文学”だから、間を置いちゃだめ! 何でもいいから思いつくまますぐに書く!」と習ったばかりの知識を振りかざし、ひたすら五七五と七七とを連ねていた。

 もっとも、内容は歌とはほど遠い。むしろリレー小説に近いものだ。何回かやったと思うが、覚えているのは……

 自衛隊機が鳥と衝突して墜落し、鳥が遺族会を中心として空中でデモを敢行するというもの。それからどうなったのかは覚えていない。

 変な女子高生だ。

 

 昨日、中野はわたしの町ではなくなった……などと書いたが、本当はもともとわたしの町なんかではない。通学には通常は荻窪を使っていた。バスの定期が“どこでも定期”(均一料金なので、区間を指定していない)なので、友だちと帰るときには中野を使うことが多かっただけだ。ただ、そのためにかえって、一人で通る荻窪が通過するだけの町だったのに対し、中野は遊ぶ町になっていたということ。

 もう、四半世紀以上前の話だ。

 

 気になったので「クラシック」を検索してみたら、数年前に元の従業員が名前を変えて高円寺に復活させたとのこと。メニューも持ち込み自由も、元のままだそうだ。驚きました。

 

 

 

 

5月15日(土)

 連休中に発見したのだけれど、NHKの教育テレビに『0655』という謎の番組がある。その名のとおり、朝6時55分からの5分間番組だ。こんな時刻(一番しっちゃかめっちゃかで家中を走り回っている時間)に見るのは不可能なので、録画して週末にまとめて見ている(月〜木。金曜日も録ったら、中国語講座が録れてしまった。せっかくだから見たけど)。「1日のはじまりをつくる5分番組(中略)あなたを送り出します」(番組HP)という趣旨からすると明らかに目的外使用だけれど。

 ボブ・マーリーの曲を倉持陽一が歌うという主題歌からしてすごいが、いちばん気になるのは「犬のうた」だ。

 

 視聴者から送られた犬の写真を、松本素生の歌に合わせて、パカパカと紙芝居のように出していくというだけのもの。「気に入っているものはこれ」とか、「苦手なものはこれ」(シャンプーやブラシというのが多いようだ)と。

そして最後に、「わが輩の願いは一つ ずっとこの人といられますように」と、飼い主と一緒の写真が出る。ここでわたしは、ぼろぼろ泣く。ばかじゃないかと思うが、条件反射のように涙がこぼれる。今こうして書いているだけで泣いている。

 

 近所で貼り紙を見て、手のひらに乗るような赤ちゃん犬をもらってきたのは、高校に入った年だから、80年のことだ。それから90年に結婚して家を出るまで、夕方の散歩はわたしの担当だった。結婚後も、あの家に行ったときには、夫と3人(?)で散歩に出た。同じコースで回ったが、年とともに以前のようには走れなくなっているのは感じていた。人間関係が悪化してからは、あの子に会うために行っていたようなものだ。

 そして96年。怖れていた電話を受けた。わたしは見たくはなかった。一緒に住んでいれば嫌でも「不在」を思い知らされるが、そうではないのだから、見なければ死んだことにはならないと思った。でも夫に説得されて、しぶしぶ行ったのだったと思う。よく憶えていないが、あの子は玄関の三和土にいたと思う。業者の人が来るまで、わたしはなでていたのだったか。夫がついていてくれたような気がする。

 それから何日もわたしは泣き続けた。自分でも嫌になって、「いつまで泣かなきゃいけないの?」と夫に問うと、彼は答えた。「一生だよ」と。

 もちろん、泣き暮らす日々はそのうちに終わったが、未だに老犬には弱い。老犬について見たり聞いたりすると、どうしても平気ではいられない。

 

 「犬のうた」を、実験のような挑戦のようなつもりで見ている。この涙はいつまで出るのか。単なる条件反射なのか。いつか慣れっこになるのか。

 それとも本当に、一生泣き続けるのか。

その前に番組が終わるか。

 

 ところで、これを書くためにNHKのHPを調べて、『2355』という類似番組があることを知った。こちらは「おやすみ前にぴったりの5分番組」だそうな。来週からこっちも見てみよう。

 

 

 

 

5月22日(土)

 おとといのこと。

 先日から小石川橋で架け替えか何かの工事をしている。東京ドームに近い神田川。星台先生が孫逸仙歓迎会の紹介記事の中で、「小さな川があり、遊船が機を織るように行き交っている」と記した近くだ。当然、橋は通行止めになっているが、川に沿って歩くわたしには、別に障りはない。信号待ちが一つ減ったくらいだ。

 おとといの朝、いつものように歩いていって、ぎょっとした。橋のたもとに白モクレンの木があって、毎春たのしみにしているのだが、それを伐っている最中だった。幹の中頃に斜めにのこぎりを当てて、無造作に伐っている。キュイーンという音が耳に痛い。

 あんな切り方だから、もちろん移植なんてしてくれないのだろう。見れば、傍らの車には枝がたくさん積まれている。あんな大きな木、そんなに簡単に伐ってしまうのか。邪魔なんだろうか。だからって、何か方法はなかったのだろうか。

 

 悲しいけれど、おおげさに騒ぐ気もしない。

工事の都合か、歩道が広げられていて、そのために車道際の植え込みがなくなっている。そんなことにも、わたしは気づいていなかった。警備員の人に誘導されるままに歩きながら、こんなに車道際を歩いていたっけ? と思うことはあったが。

そんなものだ。たぶん工事が終わればまた何かの木が植えられて、そうすると以前のモクレンのことなど、思い出すこともないのだろう。

でも、あのモクレンは好きだった。

 

昼、江戸城のお濠端で、ゴイサギを見た。初めて見たので、「あなた、何ですか?」と問うたら、水の上を渡ってずっと向こうへ飛んで行ってしまった。

 

 

 

 

5月30日(日)

 「犬のうた」では、まだ泣いている。自分でもばかじゃないかと思う。幸い先週は「ねこのうた」が多かった。こちらもよい歌だが、人との関係性が違うからか、だいぶ違っている。人の言葉は分からないけど、この人の気持ちはとてもよく分かる……。これもぐっとくるけれど、これなら、ばかなことを考えて泣くこともなかったのに。

 

 ばかなこと。

 「犬のうた」出演犬のみなさん、「ずっとこの人といられますように」というあなた方の願いは、よほどのことがない限りかなうでしょう。けれども、ずっとあなた方といたいという「この人」の願いは、よほどのことがない限り、かなうことはない。まあ、のこしていくようなことになったら、それはそれで心残りだから、辛くても自分で看取ったほうがよいのだけれども。

 

 久しぶりにカスタネッツの元ちゃんのブログを見たら、数年前に送った愛猫まるさんの命日について記されていた。彼はまだ、まるさんと一緒に暮らしているようだ。

 ずいぶん前になるけれど、ライブのときに元ちゃんが、音楽仲間の誰かの猫自慢を聞かされた話をしていた。最後に、「でも、うちの猫はもっとかわいい」と言って、にんまりと笑ったのを憶えている。それは正しい。うちの子が一番かわいいと思えなければ、一緒に暮らしちゃいけないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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