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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2010年4月 3日 4日 5日 10日 12日

 

4月3日(土)

 累積寝不足が危険なところまできている気がして、今日は寝た。洗濯物を干し終えて8時45分に布団にもぐり、気がついたら14時半近かった。さすがに驚いた。

 その夢に、TOKIOの松岡君が出てきたような気がする。ジャニーズの中でもTOKIOは好きなほうだし、TOKIOの中でも松岡君は好感をもっているほうだけれど、だからといって夢に見るほどではない。何のこっちゃ?

 

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 今、マチエのフランス革命史を読んでいる。全くの泥縄。ミシュレを写していて、あまりに何も分からないので、読まざるを得なくなった。ミシュレが、読者が当然知っているものとして説明を省いているところが、こちらには全然分からないから。国民軍って何だっけ?

 ところが、今度はマチエが分からない。あまりに複雑すぎて、頭がついていかない。とにかく、ぐっちゃぐちゃ。それがフランス大革命というものなのだと言われれば、それはそうなのかもしれないが、それにしてもひどい。

 何もかも、うまくいかないのだ。たくさんの人がいて、それぞれが「かくあるべし」という世界を思い描いていて(単純に、自分がうまい思いをできればよい、という輩も多いが)、それぞれに色々画策するが、誰一人として思うような結果を得られはしない。

 陰で革命を裏切り売り続けた卑劣漢として、マチエが口を極めて罵るダントンにしても、結局は処刑されているし、高潔なロベスピエールも大量殺人の末に自らも処刑されている。

 結局のところ、誰が得したのか。誰のための革命だったのか。

 

 というより、どこが「結局」なのか。どこで終わるんだ、これは。

 パリ・コミューンまでずっと続くのか。

 

 (王侯貴族から、大ブルジョワ、都市の職人層、プロレタリアに、農民だって一枚岩ではないし。僧侶なんて、訳の分からん生き物も力を持っているし。豊作でも先行き不安な農民は穀物を抱え込んで市場に出さず、おかげで都市の民衆は飢えるが、その矛先をどこへ向けるべきか? 政治的には王政から立憲君主制、共和政だって色々あるし。周辺諸国の王侯貴族は革命の波及を怖れて干渉し、それに対して解放軍として革命を輸出しても、諸国の共和主義者はそれを歓迎しつつも、仏軍が去って王が帰ってくれば危険に晒されるわけだし。ぐっちゃぐちゃもいいところ。おまけにわたしは、植民地も気になる。何が何だか分かりません)

 

 

 

 

4月4日(日)

 桜の下を歩いていて気がついた。ここの桜は、花ごと落ちていない。

 千歳村では、桜は咲くそばから落ちていた。花弁一枚一枚散るのではなく、五枚つけた花のまま、地面に落ちていた。

 雀の仕業だ。

 ヒヨなどは花に嘴を差し込んで蜜を吸えるが、雀は嘴が短いので花の根本の蜜まで届かない。ところが、どこの誰かは知らないが、画期的な方法を見出した。花の根本を食いちぎってしまうのだ。これで、あの嘴でも蜜が食べられる。

 うまい方法というのはすぐに広まるようで、千歳村ではたぶん10年くらい前からそうして落とされるようになっていた。

 でも、多摩のここでは、まだ知らないんだ。まだ伝わっていないのだ。いつ知るだろうかと思うと、なぜか楽しみな気がする。

 

 とはいえ、ここでは雀はあまり目立たない。表へ出てまず会うのは、きまってハクセキレイだ。冬の間は、ツグミも多かった。何かいるから椋かなと思うと、ツグミだということが多かった。つまり、ムクドリなみにいるということ。千歳村ではツグミを見たら大騒ぎだったのに。

 最近は、朝、新聞を取りに行こうと玄関を開けると、ホケキョが聞こえる。あっちからもこっちからも。ウグイスにも上手い下手があって、きれいにホケキョというのもあれば、不器用にホチャアと鳴くのもいる。ウグイス嬢たちにはホケキョのほうがもてるのだろうけれど、わたしはホチャアのほうがかわいくて好きだ。

 

 以上、家の前の通りの桜を見て書いてから、歩いて十分ほどの公園へ行ったら、桜花が丸ごと落ちていた。すぐそこまで来ていたのか。となると、来年には家の前の桜もちぎられるかもしれない。雀の情報網は侮れない。

 

 

 コジュケイを見た。こちらに来て二度目。小さいとき生家の近くで見て以来だから、40年ぶりくらいだ。

 

 

 

 

4月5日(月)

宋遯初先生生誕128年。

 

誕生日なのだからめでたいのに、彼の場合は命日が近いし、おまけに今年はつい最近『走向共和』の宋案の場面を見たばかりなので、どうも涙腺がゆるくなって困る。

それでもやっぱり、おめでとう! と言おう。

とはいえ、彼の場合はどこで祝ってよいのかも分からず、とりあえずいつも通りの散歩コースを歩いた。そして星台先生んちで頭を下げる。今日は遯初君の誕生日なんですよ、と。星台先生を大森まで迎えに行ってくれたのが、ほかでもない遯初君なのだから、そんなに的外れでもないと、勝手に決める。

先生んちの向かいの弁当屋さんの店頭に、「誕生日祝いにはこれ!」とオードブルか何かの写真が貼ってあったのが、ちょっとおかしかった。

 

こんな雨の日でも、江戸城の濠端には走る人が幾人も。そして、お弁当を食べる人も一人だけいた。肩に傘を負い、スズメに餌をやりながら。彼女は雨の日でもよく見かける。よほど職場にいたくないのだろう。というわたしも、職場にいたくなくて、どんな荒天でも散歩に出るのだが。

 

ソメイヨシノは今が盛りか。竹橋のたもとの紅い枝垂れ桜は花期が長く、ずいぶん前に開花したのにまだがんばっている。丸紅の前あたりのは遅咲きで、つぼみはまだ堅そうだ。桜にも色々あって楽しい。

 

などと桜のことを書いてみたけれど、遯初君は桜をどう見たのだろう。彼も伝統的な知識人だから、何かしらあってもよいはず。日記には観梅に行ったことは書いてあったと思うが、桜はどうだったか。魯迅の「藤野先生」だったかに、上野の桜についての描写があったような気がする。むかーし、教科書で読んだような覚えがある。遯初君はどうでしょう。

 

 

 

 

4月10日(土)

 引越以来、段ボールに入ったままで、おそらく次の引越までそのままであろう書籍群から、先日『辛亥革命史研究備要』を掘り出した。ほかのものを探していて、偶然見つけたのだ。ちょっと前からこの本のことを思い出し、気になりつつも本の題名すら覚えていず、家にあるか図書館の物かも分からないでいた。だから、題名を見て「もしや?」と思い、ぱらぱらして「当たり!」と知ってうれしかった。

 題名どおり、研究のガイドブックだ。項目毎の研究史の紹介と、論文リストとから成っている。

 

この本より、宋遯初君の評価の変遷について。

 

 遭難直後は、若い命を犠牲にした彼に対し、悼み惜しむ声が大きかった。顕彰され、故人の作物を集めた本も多数出版された。

 ところが1960〜70年代に、彼の評価は地に墜ちた。曰く、「議会迷(議会きちがい)」「右派(?共産主義じゃないから?)」「妥協派(選挙に向けての多数派工作のために、民主的進歩的な政策を止めていったことか)」「二民主義者(孫文三民主義のうちの民生主義を解さないということ)」「分裂(意味不明)」「野心(孫文を退けて政権を掌握しようとしたから?)」などなどの悪い呼び方で多くの史書や教科書に書かれたと。そういう本を、わたしも図書館で見たことがある。ひどい言われようだったと記憶している。

 以下、『辛亥革命史研究備要』をそのまま(?)訳す。

 このような状況は、歴史に忠実で正直な多くの人たちの不満を引き起こした。南京でのある座談会の席上、一人の老人が、涙を流しながら語った。「宋教仁は袁世凱の独裁に反対して、袁世凱に殺されたのに、どうしてこんなに散々に踏みにじられねばならないんだ」と。こういう強烈な善悪観は人々の琴線に触れるものではあったが、当時はそれすらも「あんなものは資産階級=ブルジョワジーの涙さ……」という扱いだった。

 

 で、「四人組」が打倒されてから、「マルクス主義の実事求是の路線の下に」、宋教仁研究も真っ当に正当に、発展していくようになったと。

 

 だけど、どうなんだろう。遯初君が評価されるのはうれしいことだし、実際の話として孫文より宋教仁のほうが優れているだろうと考える人が少なくないのは事実だろうけど。

彼を高く評価するというのは、どうしたって彼の国の「今」と「これから」とに関わってくる。「議会迷」の遯初君、独裁に反対し、政党政治、議院内閣制の遯初君だから。

彼を好意的に描いた大河ドラマ『走向共和』は、やはり「問題作」ということになっているし(もちろん、遯初君の件だけでではないけれど)。

 

 

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近所の公園でコゲラに会った。越してくる前、住みたい町を探してこの公園へ来たときに見て以来だ。至近距離に2羽。同じ木にヤマガラとコガラも。

 

ドウダンがこぼれ始めた。日向ミズキはそろそろ終わりで、畳んであった葉が開き始めている。

 

 

 

 

4月12日(月)

いつものようにのんきに散歩に出た。雨は時おり急に強くなるほかは大したことないものの、風がひどく、安物の傘は骨がしなって折られそうだ。そう言えば先程から、壊れた折りたたみ傘をさしている人を何人も見ている。まともな傘を買い直したほうがよいかと考えながら、濠端を歩いていった。こんな日でもランナーはいるが、さすがに昼食をとる人はいなかった。

竹橋の交差点を九段方面へ渡ったところで、しくじったと思った。

二人並べばいっぱいになる狭い歩道を、人波がやって来る。先週、某私大の入学式に巻き込まれて、えらい目に遭ったのを忘れていた。今日は某国立大の名入り封筒を持った群れだ。先月は何度か卒業式で同様に難儀したが、入学式は何故か親同伴が多い。当然、人数が多い。そんなことはないと思うが、仮に全員が親と一緒だとすると、母親だけなら2倍になる。今日は日本一とされる大学だからか、御両親そろっているのも多く、となると3倍か?

その流れに逆らって傘をさして進むのは、困難を極めた。途中からヤケになり、雨が小ぶりなのを幸い、傘をとじて突き進んだ。それでも清水門まで行くと、整理の人や何やら配る専門学校の人なども加わり、どうしようもなくなって車道に出た。

なんとか通りを渡ってほっとした。道はあんたたちだけのためにあるんじゃない! 日本はあんたたちだけのためにあるんじゃない! と、ささくれだった気分で歩き、星台先生の寓へ向かう。いつものように、脇の道を歩きながら東新訳社のあった西神田公園に向かって会釈して驚いた。

石楠花が咲いていた。わたしが勝手に、星台先生の身代わりにして声をかけている石楠花が、真っ赤な花をいっぱいにつけていた。深紅の花は、小ぬかの雨を受けてビロードのように見えた。

うれしかった。

落ち着いて考えてみれば、歩道が狭いのはあの人たちの責任ではないし、すれ違うときには傘を傾けてくれていた。ただ、数が多すぎただけだ。

そしてもう一つ。わたしが「親」という生き物を苦手にしているだけ。

 

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帰りの御茶ノ水駅は恐ろしく寒かった。ホームが川の中にあるため、谷を抜けていく風の冷たさは、譬えようもない。とにかく早く電車来て〜と、祈る思いだった。

 

 

 

 

 

 

 

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