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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2009年12月  6日 7日 8日 10日 26日 31日

 

12月4日(金)

『東京朝日新聞』1905年11月3日

 

○清国人学校規程

 

文部省は昨日省令第十九号を以て「清国人を入学せしむる公私立学校に関する規程」を定めたり重(おも)なる箇条左の如くにして来年一月一日より実施す

 

公立又は私立の学校に於て清国人の入学を許可せんとするときは其の入学願書に本邦所在の清国公館の紹介書を添付せしむべし

 

清国人を入学せしむる公立又は私立の学校中文部大臣に於て適当と認むるものは特に之を選定し清国政府に通告す

 

選定を受けたる公立又は私立の学校に於ては清国人生徒をして寄宿舎又は学校の監督に属する下宿等に寄泊せしめ校外の取締をなすべし

 

選定を受けたる公立又は私立の学校は他の学校に於て性行不良なるが為退学を命ぜられたる清国人を入学せしむることを得ず

 

文部大臣は必要と認めたるときは吏員をして選定を受けたる公立又は私立の学校の試験に立ち会はしめ又は試験問題及其の答案を査閲せしむることあるべし

 

前項の場合に於て試験の問題又は方法中不適当と認めたるものあるときは当該吏員はその変更を命ずることを得

 

選定を受けたる公立又は私立の学校にして此規定に違背し又は其の成績不良なりと認めたるときは文部大臣は其の選定を取消すことあるべし

 

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 改めて読むと、なかなかすごい。これは、反対運動を起こすのも当然だ。1項目目は亡命留学をできなくさせる。穏健な改良派、変法派が、留学によって革命派に転じることはままある(楊篤生もその口か?)し、留学によって素朴な反満排清から近代民主主義で理論武装した立派な革命家にもなる。

 第2項は意味不明。「適当と認むる」とは、何にとってどう「適当」なのか。「この学生は優秀だから、貴国政府で取り立てて重用するといいですよ」なんていうと思うか? むしろ、やばい「不良学生」のほうだろう。

 第3第4項目は言うまでもない。もちろん、留学生の絶対数の増加により、本当に素行の悪い学生も少なくなかったようだが、それは口実だろう。星台先生みたいに、留学生といいながらいつまで経っても日本語もろくに話せぬような、張継の言うように教師の反動的な講義を軽視して図書館で勝手にルソーだのを読んでいるような、そして学校へはあまり行かずに徒党を組んで怪しげな活動をしているような、そんな「不良学生」を取り締まるのが本当の目的だろう。

 

 この年9月、日比谷焼き打ち事件があった。負けなかった日露戦争を勝ったと思い込まされた人たちの、政府に対する不満が爆発したものだ。東京だけでなく全国で反対運動が起きている。

1月にはロシアで血の日曜日事件から各地で反政府運動が勃発。それが日露戦争の講和へもつながっている。

大衆運動の怖さというのを、日清両国政府も感じていたのだろうか。

結局のところ、革命運動はいよいよ盛んになり、ついには辛亥革命で民国成立。隣にアジア初の共和国ができた衝撃が、大正デモクラシーへもつながっていくのであるが。

 

 

 

12月6日(日)

 今年も12月6日が来た。

 1905年のこの日は、星台先生にとって最後の「普通の日」だ。この夜、彼は宮崎寅蔵を夕食に招いた。最後の心穏やかな晩餐。秘蔵のさざえの盃で、乾杯、乾杯と。

 

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 今日も公園でカワセミを見た。4回目。今回は「飛び去る小さな翡翠色」としか分からなかったが、あの色あの大きさは間違いない。

 今日はほかに、コガラやエナガ、ヤマガラなども見た。アカハラくんと思しき鳥たちが少なくとも5羽、ぶ厚く積もった落ち葉をほじくり返して餌を探していた。土の匂いが辺りにたちこめていた。

 天気のよい暖かい日だった。

 

 

 

12月7日(月)

 

 『東京朝日新聞』 明治三十八年(1905年)十二月七日

 

清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ

 

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 昼休みには旧・西小川町の東新訳社跡の西神田公園へ。天気がよく、いつものとおり近隣の勤労者諸君がベンチでお弁当を食べている。「おにぎり」と染め抜かれたのぼりを立てたリアカーが来ていて、何人かが買い求めていた。

 星台先生は、今日は一日書き物をしていた。絶命書と、宝卿公の小伝と。東新訳社がこの辺りにあったのは確かだが、正確にはどこなのか分からない。

 どこなんですか? と問いながら、しばらく辺りを眺めていた。 

 

 

 

12月8日(火)

 陳星台先生没後104年。

 例年どおり、東新訳社があった辺りにある西神田公園で、一人きりで慰霊祭。いつも立つ木陰では、今日は学生らしい数名の女の子たちがダンスの練習をしていたので、その向かいのブランコの前にたたずむ。周囲から丸見えで、ちょっと具合が悪いがしかたない。

 本当は昨日がここで、今日は大森へ行くべきなのだが、如何せん遠すぎる。

 

 いつか、ちゃんとした慰霊祭が催される日が来るだろうか。幸い、この寓の跡も、発見されたところも、公園になっているから都合がよい。だれか企画してくれないかしら。

 

 公園というのはありがたい。留学生会館跡なんて池坊学園だから、その前でお経を読むと托鉢みたいだ。

 

 本国ではどうだろう。長沙か新化で、何かしていないかしら。子孫の方もいるだろうし(お兄さんが養子をとったらしい。星台先生は宝卿公の伝記で、兄は五十を過ぎて子がないので、父の血と祀りとが絶えてしまうと嘆いていたが)。

 

 なんでもいいから、今日この日、彼のことを想う人がいるといいな。

 

 

 

12月10日(木)

昨日のこと。

留学生会館跡の前を通るとき、ここに絶命書が掲示され、この通りが群衆で埋め尽くされた光景を思い浮かべようとしたが、池坊の校舎はあまりに仰々しく巨大で、ここにあった二階屋を想起するのは難しかった。

 

昼は久しぶりに湯島の天神様へ。お参りをすませて不忍池に下りる。ユリカモメ、オナガガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ、ハシビロガモ(多い順)。初めてみるのはヒドリガモ。この日はバンもいた。

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「裁判員制度はいらない!大運動」の情報誌によれば、最高裁はフランスのヴィシー政権下の制度を参考にしたと言っているそうだ。

ヴィシー政権といえば、ナチス・ドイツによる占領下の傀儡政権だ。

なるほど。奴隷に奴隷を裁かせることで、奴隷を分断するのが目的か。

奴隷を治めるには、奴隷主が直接管理するよりも、奴隷の中から奴隷頭を選抜してさせるとよい。そうすれば、奴隷たちの恨みや怒りは奴隷頭に向けられ、奴隷主には届かない。うまくすると、悪いのは君側の奸たる奴隷頭で、御主人様なら分かってくださる、などという幻想すらもってもらえる。

 

ばからしい。

 

実際、無茶な話だ。「市民感覚」という名の単なる俗情で裁くから、当然ながら「推定有罪」で、つまりは検察の筋書き通りに進む。弁護士さんたちは困っているそうだ。

プロの裁判官は素人を優しく導いてくれるそうだが、「見えない路線が引かれている。そこから脱線できないと感じた。裁判官から『法律で決められている』と説明されると何も言えない」と話す裁判員もいる。だったら何のための制度なのか。市民のせいにして、裁判官の責任を軽くするためではないのか。

  

 これを茶番と言わずして、なんというのか。

 

 

 

12月26日(土

 風邪ひいたぁ。インフルエンザではなく、非常に分かりやすい、ただの感冒。それでも辛いものは辛いので、これを口実に「暮れ仕事」をサボっている。まだ日はあるし、よしんば間に合わなくとも、窓が汚くっても年は越せるよね、と。

 と言いながら、熱はないし眠れもせぬのでつまらないから、気散じを兼ねて買い物だけは出かけた。そしてまた、カワセミと遭遇。すぐ目の前に止まっていた。もう何度目か、数えてもいない。さすがに驚かないけれど、未だに新鮮に感動できる。やはり、スターは違う。

 

 多摩丘陵に越してきて5カ月。所詮わたしは都市鳥しか知らなかったのだと、つくづく思う。

 ここでは、三大都市鳥(スズメ、ドバト、ハシブトガラス)は、いるにはいるがあまり目立たない。代わって幅を利かせているのはハクセキレイだ。これも都市鳥で、千歳村にもたくさんいたけれど、数が違う。至る所で尾を振っている。スズメより多い気がする。実際に多いかもしれない。ただ、恥ずかしながらわたしはハクセキレイとセグロセキレイとの区別がよくつかないので、セグロセキレイも若干交じっているかもしれないが、それにしても大した数だ。

 そしてなにより、鳥の種類が多い。千歳村に19年住んで1回か2回しか見なかったヤマガラも、公園に行けば普通に会える。エナガやコガラは、千歳村では見なかった。アカハラなんて、名前すら知らなかった鳥だが、ここにはかなり多い。

 今日は、すぐ目の前にカワラヒワがいた。これも都市鳥と言えるのかもしれないが、千歳村では見なかった気がする。

流れの上を飛ぶ小さな鳥がいて、カワセミかと思ったが赤い。止まったのを見たらジョウビタキだった。本物を見るのは初めてで、うれしかった。

 

 

 

12月31日(木)

 劉道一先生、没後103年。1906年のこの日、刑死。

 

 満22歳は若すぎる。なかなか肝の据わったおもしろい人物だったようなので、貴重な人材を失ったと思えてならない。

 揆一の嘆きっぷりを章太炎が批判しているようだが、彼らの場合、兄の身代わりという意味合いがあったので、無理もないと思う。

 

 感情の激しい湘人気質もあるのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 

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