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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2009年11月 1日 17日 22日 28日

 

11月1日(日

 門外漢なので、学界の動向が今どうなっているのかなど全く知らないが、かつては、秩父事件は自由民権運動か百姓一揆か、などという議論がなされていたと思う。もちろんそれは単なるレッテル貼りではなく、事件の評価(=事件の性質に対する解釈や、歴史上の位置づけ等々)という問題なのだが、それでもやはり素人としては、どっちでもいいじゃん、そんなの、と思ってしまう。どちらかに決める必要があるのか? そのまんま真っ直ぐ見ればいいのではないのか? そして、そのまんま真っ直ぐ見れば、あれはやはり百姓一揆だろう。百姓一揆だけれど、上層部は近代啓蒙思想によって理論武装していた。そんなところだろう。

 正直言って以前のわたしは、秩父事件が百姓一揆だと言われると、なんだか侮辱されたような気がしたものだ。井出為吉の書いた「革命本部」の文言を見て、ただの百姓一揆だと思っていた東京の人たちは仰天した……などという話を聞くと、喜んだりもした。

 でも、今は思う。百姓一揆は近代啓蒙思想より劣るのか? 百姓一揆に思想はないのか? 無知蒙昧な動物的な輩の「本能的な」行動に過ぎないのか?

 

 世直し世均しは、古今東西を問わず、民の願いだ。それは極めて真っ当な感覚ではないのか。

 

秩父事件は「合法的な」請願運動から始まった。それが全て失敗する中で、「法」つまりは明治政府というものが、民の側ではなく高利貸しの側に立っているということが、明らかにされた。法は民から高利貸しを守るもので、その逆ではない。

でも、真面目に働いている者たちがどうしても借金まみれにならざるを得ず、その一方で民の貧困によって肥え太る者たちがいるとしたら、それはその世の中の仕組み自体が間違っているのではないか。借金の「十ヶ年据え置き、四十ヶ年賦」という困民党の要求がでたらめだというなら、そんな借金を負わざるをえなくさせる状況(明治政府の政策)はでたらめではないのか。

非があるのは自分たちの目の前にいる高利貸しだけでなく、むしろその背後にある明治政府、重税や松方デフレのような非情な経済政策などによって自分たちを困窮させる国家こそが敵だと、彼らは認識していたのだろう(困民党の要求事項には、減税や学校の休校もある)。だから、「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」になるわけだ。

フランスの法律は高利を禁じていると、秩父困民党総理・田代栄助は裁判で述べたそうだ。今の政府による実定法が絶対なわけではない。法が間違っていれば正す。それは世直しの思想であり、民権思想でもある。

 

農民を甘く見てはいけない。秩父はなるほど山国だが、決して山ん中で孤立していたわけではない。彼らの多くは養蚕農家であり、生糸は明治日本の主要な外貨獲得手段であった。生糸の国際相場は横浜から直ちに秩父に伝わる(なお、秩父の相場はその日のうちに峠を越えて上州や信州まで伝わったそうだ)。生糸を通じて彼らは世界経済と直結し、常に世界の情勢を敏感に感じとっていたわけだ。

 

 

何が言いたいのか分からなくなってきたが、ともかく、秩父事件125周年のこの日(本当は31日からだけど)、ちょっと言いたかった。

素朴な本能的なと思われがちな世直し世均しの思想は、近代啓蒙思想と見劣りするものではない、というより、それと通じるところがあるし(だから受容もされる)、ひょっとしたら世均しという点では上を行っているのかもしれないよ、と。

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 鼻がぐずっている。口の中がかゆい。花粉症のときみたいだ。

 これはもしや、秋の花粉症、いわゆる枯草熱ではなかろうか。草深い多摩丘陵に来て発症した? 

 思い違いならいいのだけれど。

 

 

 

 

11月17日(火)

 陰暦十月朔。

楊篤生が生まれたのは、十月とまでしか分かっていない。たまたま同治十年十月一日は西暦11月1日に当たるため、11月いっぱいをお誕生月間とみなしているけれど、陰暦にこだわれば、今日からの一カ月と考えてもいいわけだ。

難儀な生を送った人だけれど、この人がいてくれたのは中国の歴史にとって大きな益だと思っている。

もっと評価されてほしい。ちゃんとした研究者の方に見出されて、見直されてほしい。

 

 

 

 

11月22日(日)

 昨日の夕方、近所の公園でカワセミを見た!

 小さな流れの水面から、青いものが飛び立って、向こうの枝にとまった。はっきりとは見えないが、あの大きさで青い鳥といえば間違いない。

 「あそこ、この指の先!」と夫に教えようとするが、彼はなかなか見つけてくれない。そのうちに青いものは飛び立って行ってしまった。

 カワセミを見たのは久しぶりだ。むかし善福寺川で何度か見て、去年だったか江戸城のお濠で見た。あれ以来、お濠端を歩くたびに探しているが、それきりお目にかかっていない。

 やっぱりうれしい。引っ越してよかった。越してきて間もない頃に同じ公園で夫が目撃していて、そのとき同行していなかったことを悔やみながらも、近所なのだからちょくちょく行っていれば会えるはず!と思っていた。

 本当に会えた!

 この日はカワセミの前にアカハラを2羽見た。この鳥については全く知らなかった。名前すらも聞いたことがなかった。越してきてから、毎朝、張りのある美しい声で複雑かつ玄妙な節回しを聞かせてくれる鳥がいて、何だろうかと思っていた。CD付きの図鑑を買ってきて、実際に公園で姿も目にして(意外と大きな鳥だ。ヒヨより大きいか?)、アカハラと特定できた。図鑑には、冬は南西諸島や中国南部まで渡るものもあるとあったが、今まだいるということは、ここで越冬してくれるのだろうか。

 

 いいところに越してきたと思う。10分も歩かずに、ちょっとした山道で遠足気分も味わえるし。

 ただ、寒さは予想どおりだ。千歳村は大手町より3度くらい低かったが、ここは5度は違うと聞いていた。新聞配達の青年に、「盆地だから寒いですよ」とにこやかに警告されてもいた。だから、引越時にコタツを買ったり、カーテンも厚手の長めのものにするなどして、覚悟は固めていた。

 実際、寒い。夜はしんしんとくる。温暖な地に夏の盛りに生まれた夫は、冬眠したがっている。寒さの好きなわたしも、少々怯え気味。既に感冒もひきかけているし。

 ということで、風邪気味が本物の風邪にならないよう、今日は最小限の活動にとどめ、あとは眠っていた。

 

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 昨日の朝、新聞を取りに出ると、すばるが迎えてくれた。大好きな冬の星々。今日は天気が悪かったが、雨の降り出しが予報より早かったから、明朝は晴れてくれないかな。

 

 

 

 

11月28日(土

 近所の小川に灰青色の鷺がいた。そんな色だし、当然の顔をして突っ立っているから、一瞬、銅製の彫刻かと思った。たぶんアオサギ。市ヶ谷のお濠で見たことがあるが、この辺では初めてだ。

 鷺を通り越してしばらく行くと、今度は流れの上をカワセミが飛んで来て、そのまま飛び去っていった。越してきて4カ月で、夫が1回、わたしが2回、会えたわけだ。

 なおも行くと、いつもの植え込みの前にできた日だまりに、いつものトラ猫がお腹を出してだらしなく寝ている。猫はあまり好きではないが、野良ちゃんは別だ。この子たちはかわいい。野良ちゃんの寿命は平均5年と聞いて不憫に思い、よけいにかわいさが増した。飼い猫なら10年くらい普通に生きるのに。とは言え、時々カメラの被写体になってもらうだけで、それ以上に関わるつもりはない。

 用事を済ませて同じ道を帰る。トラちゃんは同じ場所に同じ格好で寝ている。10秒くらいにらめっこしてから行き過ぎると、向こうからカワセミが飛んで来た。わたしの前を通り過ぎ、10メートルくらい先の岩に止まったので、早足で戻る。口に何かくわえているように見えるので、もっと見たいと思ったら、飛び立って行ってしまった。

 しかたなく回れ右して歩き出すと、初老の夫婦がめいめい電話を構えて何か撮っている。見るとアオサギが突っ立っている。行きに見た場所と、わたしの脚で歩いて10分くらいは離れているが、おそらく同じ個体だろう。ではカワセミは? 行きに見た場所といくらも離れていないから、たぶんこれも同じ個体だ。今からもう一羽飛んでくれば、それは別の個体ということになるけれど、さすがにそれはなかった。

 けれども、先週見た場所や夫が見たという場所とはかなり離れているから、それとは別かもしれない。

 なんでもいいや。この辺にはカワセミがいる。夏の間じゅう近所の子どもたちがドジョウだのザリガニだのを採っている流れで、カワセミも小魚を獲って暮らしているのだ。

 ということは、この先も何度も会えるということだ。

 それでもきっと見飽きることなく、何度でも新鮮に感動できるだろう。それは確信がある。カワセミのスター性は、ちっとやそっとで飽きるようなやわなものではないから。

 

 

 

 

 

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