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多摩丘陵から 〜日記のようなもの      

 

2009年8月 16日 19日 26日

 

8月5日(水)

 楊篤生の命日。留学生会館跡で、一人きりで慰霊祭。

 

 とりあえず、今はこれだけ。もう少し落ち着いたら、ちゃんと書く。

 

 

 

8月16日(日)

 多摩丘陵に越してきて、半月経った。混乱が治まってみると、まるでずっと昔から住んでいたような気になっている。土地の気になじむというか、なんだかとっても落ち着く。

 

 玄関を開けると、山がある。遠望するのではなく、目の前にこんもりと茂った丘がある。千歳村では稀だったウグイスも、ここではシジュウカラなみに鳴いている。朝方には、聞いたことのない鳥の声もする。ドバトも多いが、ハクセキレイやセグロセキレイがそこここを歩いていて、かえってスズメなどが目につかない。

 大通りの歩道を、カミキリムシが歩いていたのには驚いた。子どもの頃の夏休みに山へ行ったときしか見たことはなかったから。立派なカブトムシの死骸も転がっている。トンボは無数に飛び交っているし、大きなバッタもたくさんいる。

 

 わたしは23区の外れで育ち、自分ではあまり「東京の子」らしくないと思っていた。小学校の正門前と裏門前とには、広大なキャベツ畑があってモンシロチョウチョがひらひらし、そのためかアシナガバチが多く、わたしは3回か4回は刺されている。

 けれども考えてみれば、家の前の路地に多かったのはヒシバッタで、稀少だったオンブバッタは中学に上がる前に滅んだ。ツクシを摘みに行っていた原っぱは、小学校3年のときにマンションに変わった。コジュケイも、幼稚園のときに見たきりだ。

 話は逸れるが、カブトムシはいた。少なくとも幼稚園のころまでは。わたしの行った幼稚園には、園長先生のほかに「園主先生」という初老のおじさんがいて、路地を挟んだ幼稚園の向かいが園主先生の家だった。その家に雑木林があって、カブトムシを捕りに行ったことがある。いま考えると、要するに幼稚園のオーナーが土着の人で、屋敷森に囲まれた昔からの家に住んでおられたわけだ。

 

 閑話休題。

 つまるところ、わたしは「東京の子」だったわけだ。この多摩丘陵だって、もちろん東京都ではあるのだが、やはり違う。田舎育ちの夫は、「俺は本来はこういう所にしか住めないんだ!」と大喜びしている。わたしも喜んでいるが、もの珍しさによるところがある。だって、カミキリムシだよ!

 住みたい町を探して歩いたときにコゲラを見た公園も、このすぐ近くだ。

 

 この地を選んだのには、公園がたくさんあるというのが大きかった。大きさも性格も様々な公園が、あちこちにある。緑地伝いに、公園から公園へと渡り歩くこともできる。

 それはとてもうれしいことなのだけれど。

 

 この地はいわゆる多摩ニュータウンだ。それがどうやって造られたのか、知らないではない。万葉集に「多摩の横山」と歌われた多摩丘陵を、切り刻んで造ったのがこの町だ。

 その際もちろん、土地の気も数多の生物の世界も破壊されたわけで、わたしの気に入った公園は、破壊された丘陵のかけらを申し訳程度に残したものにすぎない。

 そして、破壊されたのはそれだけではない。

 住み始めて気づいたのは、農家がないということだ。千歳村には農家が点在し、無人スタンドが何カ所かあって、安全な野菜を安価で手に入れることができた。

 けれどもこの町には農家がない。あるのは、巨大団地とマンションとアパートと、戸建ての分譲団地と思しき小ぎれいで粒ぞろいの家並みと、広大な駐車場を備えたショッピングセンターと、これから「開発」されるであろう草ぼうぼうの空き地と。

 多摩ニュータウンについて調べたことのある夫に訊いたところ、ニュータウンを造るときに、みな離農させられたそうだ。頑として拒んだ少数の農家を除き、商店などに転業させられたらしい。

 丘陵と一緒に、古来の人の暮らしも共同体も破壊されたのだ。

 

 ともあれ、ここはよい町だ。なかなかに暮らしよくて、気に入っている。

 何年住むか分からないが、とりあえずはこの土地と仲よくやっていきたいと思っている。

 

 

 

8月19日(水

転居したため、今度の選挙には投票できないと思っていた。市の広報に、旧住所の選管に問い合わせればできるかも、と書いてあったが、そこまでする気はなかった。

ところが昨日、世田谷区の選管から「転出者用」と書いた投票券が届いた。これを持って以前行っていた中学校へ行けば、投票できるらしい。

どうしましょう。行くことは十分可能だ。でも、そこまでして投票する意味があるか? 小選挙区はどうせ死に票なのに。小選挙区制はよくない。投票意欲を著しく殺ぐ。

せめて比例区で?

暇つぶしに出かけて、好きだったケーキ屋さんでお茶してくるか?

 

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金大中が死んだ。

いつかのライブでだったか、宮本が言っていた。「かつて、獄中にあって、金大中は輝いていた」と。何かのインタビューでも言っていた。「死刑囚から大統領になったのがかっこいい」と。

よく分かる。わたしも同じようなところにいた。

宮本は高校生のとき、石くんをつかまえて靖国問題を論じたり、お父さん相手に「中曽根は悪い奴だ」とぶっていたという。

わたしも高校生のとき、分りもしないで『韓国からの通信』を一所懸命読んでいた。子どもだから、単純な「良い者/悪者」論で。そのとき確かに、獄中にあって金大中は輝いていた。当時はまだ一般には「きんだいちゅう」と呼ばれていて、わたしは『韓国からの通信』のルビを見て「金大中はキムデジュン、朴正熙はパクチョンヒ」などと覚えては、一段上がった気がしていた。子どもだからとはいえ、今から思うと恥ずかしい。

わたしの母は朝鮮で生まれたのに、わたしは朝鮮が日本の植民地だったことを知らなかった。教科書の後ろのほうに「日韓併合」ということばがあるのは知っていたが、授業はそこまでいかなかったし、どういう意味だか知らなかった。

知ったのは高校1年のときだ。地理の先生が、当たり前のように「植民地」ということばを使った。それで初めて、「併合」が欧米がインドや東南アジアにしていたのと同じことを指すのだと知った。何が「併合」だ。

「植民地」というあからさまなことばにも驚いたが、それ以上に、自分がそれを知らなかったことに驚いた。母は朝鮮生まれなのに、「何か知らんが昔の人にはそういう人もいるらしい」くらいにしか思っていなかった(子どもから見れば親は前時代の生き物だ)。

母は植民地生まれだ。となると、日ごろ母が称えている「偉いお祖父ちゃん」は、つまり植民地官僚だ。立志伝中の人(いま思うと随分ささやかな立志伝だが)とのことで、維新で食い詰めた東北の下級士族の次男として生まれ、苦学して出世したというけれど、その出世が朝鮮に渡ってからのものならば、それは何の功績によるのか?

などという「家の神話」に対する懐疑もさることながら、自分のあまりの無知さ、うかつさに驚き呆れ、朝鮮近代関係の本を読み漁った。その関係で、『韓国からの通信』にも手を出したわけだ。

そのまま大学は東洋史を選んだが、朝鮮近代史のあまりの息苦しさに恐怖と倦怠感も覚え始めていた。このまま原罪を負って、朝鮮近代を見続けられるのだろうか。「ごめんなさい史観」や「おかわいそうに史観」を、乗り越えられるのだろうか。

で、結局、逃げた。高校卒業式と大学入学式との間の、ふわふわと自由な時間に、友人に連れて行かれた図書館で、現代モンゴルを紹介する本を何の気なしに手に取った。そこで、モンゴリアンブルーの空の写真にひかれ、モンゴルにも革命があったことを知り、こんなところにもわたしの全く知らない近代史がある! と。

で、つまるところ、モンゴル近代史を直接やる力はないので、モンゴルを視野に入れた中国史ということになった。朝鮮については知らんぷり。朝鮮語も十九のときにかじりかけただけで投げ出した。よって、負い目が一つ増えただけ。愚かなことをしている。

 

 

 

8月26日(水)

 今日は七夕。陽暦8月末までくるとは驚きだが、これは閏5月などというのがあったから。

 でも、昔の歌集を読んでいると七夕は秋の歌で、昨日からこおろぎが鳴いている今頃でもよいのかもしれない。

 ところで、愛用のお月様カレンダーにあったのだが、先だっての皆既日食のことを「黒い太陽」などという向きもあったけれど、黒いのは月であって、普段は見られぬ新月を拝んでいたのだと。なるほど、もっともだ。

 

 七夕の日に、えらい落胆。事態が信じられず、おろおろするうちに、気持ち悪くなってしまった。

 野音のチケットのファンクラブ先行、落選。この十余年、何十回もファンクラブで買ってきたが、とれなかったことなど一度もなかった。

 新しいファンが増えているのは承知している。彼らの多くは非常に熱心で、全公演に行きたいという人が多いのも分かっている。

 だからって、なぜわたしが行けないんだ? 最近エレカシに対して冷淡だったから? 今の会社に移ってからの彼らに疑問をもっていたから? 

 それでも野音だよ! 年に1度の祭りだ。体力的にライブが辛くなってきたけれど、それでも野音だけは行き続けようと誓っていたのに。

 

 一般発売に賭けるか。どうせ即完、それもあっという間だろう。一般より前にも手は尽くしてみるけれど、世故にうといから期待は薄い。

 

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 多摩ニュータウンについてあれこれ書いたけれど、もちろん破壊だけではない。

 新しく造られたこの町に、このわたしも住んでいるわけだし、団地の自治会などによる、お祭なども盛んに行われているようだ。

 新しいものが、つくられてはいるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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