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千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年11月 3日 4日 5日 23日

 

11月1日(土)

 陽暦による楊篤生の誕生月間初日。生誕136年。

 

 今日はぬくぬくと暖かい日。空はどこまでも青く、みごとなまでに雲ひとつない。布団を干しているベランダの手すりが燃えている。

 「ベランダの手すりは燃えてる〜」はカスタネッツの「夏の記憶」という曲にあります。しみじみといい曲です。

 夫の仕事を手伝ったり、秩父の写真を出してきたり。平和な日。

 

 夕方前から公園へ。歩くのを目的としたので、カメラは持たなかった。

木立の向こうに夕陽がいて、木々を金色に染めていた。午前中に行くことが多いので、こんな光景はあまり見たことがない。カメラを持たなかったのをちょっと後悔したが、現にこの場で味わっているのだから、写真よりそのほうが本物だ。

 

その後、駅まで足を伸ばして、商店街の雑貨店で小さな食器棚を買った。茶箪笥の上置きというか、ひと抱えくらいの小さな物。配達は頼まず、夫が抱いて帰った。

道々、畑の向こうで陰暦四日の細い月と太白金星とが仲よくしていた。あまりにきれいなので夫にも見てほしかったが、大荷物を抱えて足もとの見えない夫には、そんな余裕はあるわけなく、残念だった。

 

 

 

11月3日(月)

 今日は晴れの特異日のはずなのに、どんよりとした曇天。この季節、曇ると洗濯物が乾かない。

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 一昨日、公園へ行ったときのこと。

 小さな女の子が乳母車を押しているので、自分が乗ってきた車かなと思ったら、ちゃんと赤ちゃんが乗っていた。あんなに小さくてもお姉ちゃんなんだねと、感じ入ったのだけれど。

 

その先で小さな兄弟がボールで遊んでいた。5つか6つくらいの兄と、3つくらいの弟。お兄ちゃんが一人でボールを蹴っていて、弟には触らせてやらない。弟は泣いてすがるのだが、巧みに背を向けて阻んでしまう。弟が泣いていると、そばでゴルフのクラブを振っていた父親が、弟を叱りつけた。

驚いた。どう見ても悪いのは兄のほうだ。

それで思った。おそらくこれがあのお父さんの教育方針、もっと言えば人生観なのだ。

すなわち、勝てば官軍、負ければ賊軍。弱い者が負け、負けた者が悪い。悔しかったら強くなって勝てばよい。

なんだか悲しくなった。生存競争は病気だ。社会が病んだ状態だ。ついでに言えば資本主義の拡大再生産も病気だ。来年の種籾と、最低限の不時の備えとを残して、祭や何かでみんなでパァーっと使ってしまうのが、自然で健全な姿ではないかい?

クロポトキンは、相互扶助こそが正しいと、動物生態学や文化人類学を駆使して証明している(いずれの学問もまだない時代に)。

 

難しい話はさておき。

夫の実家で甥姪と遊んでいて驚いたことがある。五年生か六年生だった甥(夫の長姉の子)とトランプをしていて、神経衰弱で「それ違うよ」と教えてもらったり、あるいは二年生の姪(次姉の子)とジェンガをしていたとき、「ここなら大丈夫」と教えてもらったり。

こんなことがわたしには驚きだった。家族でゲームをするのは楽しむのが目的だから、勝ちも負けもどうでもよい。みんなで楽しければそれでよい。

そんなことも、わたしは知らなかった。これは新鮮な驚きで、わたしもこんな優しい文化に育ちたかったと切に思った。

 

誰も誰の頭も踏んづけることなしに、みんなでにこにこ暮らしたいよね。どうしたらそれがかなうのか、有史以来頭のよい人たちがたくさん頭を悩ましている。それこそエレカシの「ガストロンジャー」にもあるように、「孔子の『論語』でも言っている」。

 

 

 

11月4日(火)

 夕刊開いたら、ドッカーン!の大ニュース!!

 なんでこれが一面トップじゃないんだ?!

 

 清朝末期の光緒帝、暗殺説有力に 頭髪からヒ素検出」(朝日新聞)

 

とのこと。

 やっぱり! ずっと噂されていたけれど、本当だったのか! 記事を読んでもらえれば分かるが、要するに、清史編纂チームが遺体の毛髪を分析した結果、多量の高濃度ヒ素が検出され、短期間に致死量を上回る量を摂取したことが分かったとのこと。

 かわいそうな、さいてん君。かわいそうすぎる。まだ四十にもなっていなかったのに。なんて不憫な子なんだ。

 誰の仕業かまでは分からぬそうだけれど。

 

 五歳で即位し十七歳から親政というけど、実権があるわけもなく。それでもがんばって自己主張し、二十八歳で戊戌維新で活躍したものの、すぐに政変で幽閉され、以後十年。あまりな生涯(年齢は数えです)。

 

 ところで、同治帝載淳はなんで夭折したの? やはり母親(西太后)に消された?

 

 

 

11月5日(水)

 今朝、清国留学生会館跡を通るとき、発作的に片手を口にヤッホーの形で当てて、叫んでしまった(もちろん小声で)。

 「光緒帝載湉は毒殺でしたー!」

 

 もちろん留学生諸君にはいろいろいて、革命派やそのシンパのほかに、保皇派・立憲派もいれば、単なる科挙の代わりで清朝下での出世を望む者、清朝が存続しようが滅亡しようがどちらでもいいから出世したい人、実業に志す者、なんとなく遊びに来ているぼんぼん、などなど様々だったと思う。

 その誰もが、さいてん君の急逝には驚いたはず。

 

 篤生も星台先生も、変法派くずれだ。特に篤生は湖南変法運動の中心部にいたから、光緒帝への期待も大きかったはず。その彼が、後にはほかならぬさいてん君の命をつけ狙っていた。ついに機会を得ることはなかったけれど。

 でも結局、彼は暗殺されたわけだ。革命家の手によってではなく、宮中で。

 

 

 

11月23日(日)

 御茶ノ水の駅前では、右から左からインチキ募金団体まで、いろいろな人たちが演説だの署名集めだのをする。病院だらけの街だから救急車がしょっちゅう走っているので、拡声器の声とピーポーピーポーとで、なかなかに騒々しい。

 先日、また何かやってると思ったら、裁判員制度の反対運動だったので、慌てて信号を渡って署名した。こんな運動をしている人たちがいるとは知らなかった。

 一旦その場を離れて買い物に行き、帰りにメンバーのおばさんをつかまえて訴えた。「がんばってください。こんな運動している人たちがいるって知って、うれしくって。絶対やめさせなくちゃいけないと思うのに、新聞に投書しても全然載らないし、どうしようかと思ってたんです」

 

 実際に朝日新聞に手紙を書いたのは夫だが、これは全く何にもならなかった。「反対が多くても、問題があっても、やらねばならない」というような、信仰告白じみた文章が編集委員名で載ったくらい。この件に関して朝日は、旗振り役をすると決めているようだ。無知な愚民が反対しているが、諄諄と説いてやれば納得するさ……と「啓蒙」してくださるという態度を明確にしている。

 

 でも、これは天下の愚行だ。主権の行使だなんて、とんでもない。主権の蹂躙にほかならない。以下に、夫の文章を引く。

 そもそも主権とは、社会契約によって生じた一般意志の行為に外ならない。全ての人間が幸福に暮らしていくために結んだ約束事、それが社会契約であり、我々全員の意志の総和、それが一般意志である。だから主権者とは、集合的な存在でしかありえない。集合存在であるところの「主権者」がその権利を行使するということは、具体的にどのような行為を指すのであろうか。

 ルソーはこれを、立法にのみ限定する。そして司法・行政などの執行権は、人民個々には属し得ないと言う。

 

 ましてや、今回のこの制度は、わたしたちの知らないうちに国会で決められ、天から突然降ってきたものだ。拒否する権利もない、拒否すると罰せられるというのでは、思想信条の自由はどこへ行ってしまったのか。

 

 もしわたしが候補者になっても、絶対に拒否する。人を裁くなんて、絶対にいやだ。

わたしの外祖父は判事だった。東京で弁護士をしていて失業し、判事として朝鮮に渡って、朝鮮各地を転々としながら出世し、敗戦時は地方の法院長(地裁の長?)だった。抗日運動の闘士に死刑判決を出したこともあるらしい。

もちろん判事が法を作るわけではなく、判事は法を適用するだけだ。個人の好悪や感情によらず、自らを法そのものとして、その件にその法が適用されるか否かを判断する、そういう仕事だと理解している。だから悪いのは法を作った人であって、それを適用しただけの祖父に咎はない…………とは言えない! 祖父にもやはり罪はある。引き揚げ後は田舎の裁判所で温情判事とか言われておだてられ、勲章までもらって田舎名士として安楽に生涯を終えて、それでいいのか? 何の疑問もないのか? と思う。

 

専門教育も受けていないのに、法そのものとして人を見るなんてできるわけないし、その結果を生涯背負っていく覚悟ももちろんない。そんな素人に何を負わせようというのか。

 

 

あのさあ、裁判への参加は義務だってプラトンも言ってるよ。でもそれは、せまい氏族社会での、被告のことを誰もが知っている、少なくとも●●家の××の息子ね、というくらいには知っている社会での話だ。

 

 件の団体が、きのう都内で集会を開き、次いでデモ行進を行った。参加したかったけれど、あいにく夫が風邪で寝込んだので、残念ながら欠席。次の行動にはぜひ参加したい。

 

 

 

 

 

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