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千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年9月 9日 13日 26日

 

9月8日(月)

 9月は激動で始まった。というと大げさにすぎるが、なんだかんだと忙しく、日記が書けなかった。

 

 細々とした雑事が多かったのだが、大きなものというと、TVの買い換えだ。12年使ってきたTVが、さすがにここのところ不穏な様子を見せるようになり、案じていたら、ついに異音がした。わたしは聞いていないのだが、夫がバチッという音を聞いてすっかり怯えてしまったのだ。このまま放っておくと、火を噴きかねない。

 で、電器店に電話して相談し、二人で出かけて購入し、ついでにレコーダーも新調した。懸念されていた液晶画面は、夫が自分で調整し、なんとか見られるようにした。店頭で見たのより大分おとなしくなったが、それでもブラウン管よりは疲れる気がする。これでは進歩か退歩か分からないが、このTVがだめになる頃には、よりよいものになっていると信じようか。

 ということで、我が家のTVも地デジになった。MXがきれいに映るようになり、それはよかったのだけれど、TVKが映らない。アナログなら映るが、ひどい画像だ。TVKはアンテナの向きが違うから無理ということらしい。東京に住みながらテレビ神奈川を見ようというのが間違っているのか。

 最近のTVKは音楽番組に以前ほど力を入れていないようだし、音楽に対する当方の情熱もあまりなくなっているから、見られなくてもさほど困らないとは思う。いずれ多摩ニュータウンに移転したら、彼の地では電波の関係でケーブルテレビに入らねばならぬそうだから、そうなればまた見られるだろうし。

 でも、わたしがエレカシを知ったのはTVK様のおかげなので、ちょっと寂しい気はする。

 

 天候も大荒れ。昨夜もひどい雷雨。外出していた夫は、大振りの傘を持っていたにもかかわらず、濡れて帰っていた。

 

 天候といえば、一昨日は夏フェス最後の長岡のイベントがあったのだが、途中で中止になったそうだ。「雨天決行・荒天中止」となっていたから、ひどい天気だったのだろう。

 しかも、エレカシから中止だそうだ。雷雨の中じっと耐えてエレカシを待っていた人たちの気持ちを察すると、涙が出る。泣いちゃうよ。

 聞くところによると、それでも宮本はステージに姿を見せ、投げキッスの嵐をおくってくれたそうだ。

 ミヤジ、いいなあ。いい男だ。

 

 

 

9月9日(火)

静児

おまえは前の手紙で、お母さんが風邪をひいたが病気はさほど重くはないと言っていたが、伯父さん(徳鄰)からの手紙によれば、お母さんは肺病だそうではないか。なぜ本当のことを書かないのだ。

お母さんは身体があまり丈夫ではないので、私はとても心配だ。肺病は中国では今まで確かな治療法がなかった。医者が病気の原因を解っていないので、往々にしてあまり効果がなかった。

おまえたちはお母さんにまめに手紙を書いて、私がこの手紙に書いたとおりの方法をお母さんがきちんと行うようにすれば、効果が見られるだろう。

おまえたちは城内(長沙市内)で一所懸命に勉強し、お母さんにまめに様子を知らせて、心配をかけないようにしなさい。わかったね。

もしお母さんが手助けを必要とするなら、静児は必ず帰ってお母さんを手伝い、お祖母さんの言いつけに従いなさい。

おまえが書いて寄こした文章は、あまり上達していないね。よい文章を書くには、必ず古人の名作を熟読し、ものごとの道理の是非や、それを処理する筋道や、言い表す方法を、よくよく考えなさい。ものごとの道理の是非を知り、それを処理する筋道が分かっても、言い表す仕方が悪ければ、よい文章にはならない。といって、道理や筋道があいまいなら、それは文章ではなく、単なるでたらめでしかない。道理や筋道は書物の中にはなく、本を閉じてから自分で考えて研究して得られるものだ。それができて初めて、古文を読むことも、文章を書くことも、できるようになる。

この手紙はお母さんにも見せるように。

父守仁   

九月十一日 

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娘の楊克恭あての1909年10月24日付書簡。

静というのは幼名だろうか。彼女はこのとき数えで十六歳。長沙城内の周氏女塾に在学中だった。弟の克念も長沙へ出て明徳学堂で学んでいたはず。

 

 

 

9月13日(土)

『ある出稼石工の回想』  08/09/11読了

 著:マルタン・ナド、1895年/訳:喜安朗(きやすあきら)/岩波文庫、1997年

 

 マルタン・ナドは1815年、クルーズ県の農家に生まれた。クルーズ県はフランス中西部らしいが、どこにあるのか目下さがしているところだ。

 父は腕のよい出稼石工で、ナドも十五歳のときに父に連れられてパリに出る。不潔な木賃宿に苦しみながら、三泊四日の徒歩旅行だ。

 どうやら、この辺りの農家の男の子は、その年頃になるとパリなどの都市へ出て出稼ぎし、冬になると稼いだ金を持って帰郷。翌春にはまた都市へ出る。そういう生活を、年をとって身体がきつくなるまで続ける。ということは、農業は女子どもと老人によって担われているということか。それでも彼らの夢は金を稼いで農地を拡大することにあるとすれば、実態はともかく意識の上ではあくまで農民なのだろうか。

 しかし、ナドの父は石工を辞めると帰郷したが、ナド自身はパリでの暮らしのめどが立つと妻を呼び寄せているから、時代が変わっていくところなのかもしれない。

 石工とは何か。日本だと墓石や灯篭でも造っていそうだが、そうではない。要するに建築労働者、ビルを建てる労働者だ。石膏を混ぜ、石を積み上げて、建物を造り上げる。こてを使って装飾的なこともするから、左官のようなことも兼ねているようだ。

 農村から出てきた多数の出稼ぎ石工が、そうしてパリの街を造っていた。

 見習い職人、職人、親方職人、建築業者とあって、それぞれの間に雇用関係がある。すなわち、建築主が建築業者と契約し、建築業者は親方職人を雇い、親方職人が職人たちを雇い入れ、職人たちは助手や下働きとして見習い工を使う。それは工事毎の契約だが、もちろん条件が合えば(たぶんより重要なことにウマが合えば)、それは次の工事でも続くだろうし、逆の場合は工事の途中でよそへ移ることも普通に行われていた。

 彼らの人間関係は多分に酒を介した密接なもので、おごりおごられるのは何より大事なこと、みんなで仕事を放っぽり出して飲みに行ってしまうのもまた、大事なこと。その密接な人間関係が、単なる憂さ晴らしや景気づけを越えて、労働運動、社会運動、政治運動へ向かっていく萌芽にもなるのだろうけれど、わたしのような飲めない人間から見ると、ちょっと恐い世界ではある。

  さて、ナドも見習いから始めて成長していくわけだが、ひとつ重要なこととして、ナドの教育のことを書き添えておく。

 ナドの父は、ナポレオンの部下だった将軍の家に奉公していたことがあり、たいへんなナポレオン崇拝者だった。彼は館の奉公人たちから英雄譚を山ほど聞き、それをそっくりそのまま故郷の農村に語り伝えていた。彼は腕のよい石工としてだけでなく人望があり、新たにパリに出る郷里の若者の引率を委ねられもしていた。おそらくかなり聡明な人だったのだろう。彼は家族の反対を押し切って、息子に教育を受けさせる。学校制度などないので、マルタンは幾つかの学校(というより、塾か寺子屋のような感じか)を転々とするが、パリへ出るまでには一通りの読み書きを身につけている。

 石工に必要な「教育」とは何か。何より帳簿付けだろう。種々の資材を記録すること。その先に、建築労働者としてもっていると有利になる建築学や設計学の知識がある。パリで職人となってから、ナドはそういう勉強もし、さらに自室で塾のようなものを開いて、仲間の労働者たちに教授している。

 おもしろかったのは、以上に述べたような、出稼ぎ石工やそれを送り出す農村の生活についてであって、政治向きの話が主となる後ろのほうは、読むのが少ししんどかった。訳者によれば、これは全訳ではなく、政治運動が主となる後半は割愛したとのことだ。十九世紀フランス政治史の研究者なら残念がるだろうけれど、わたしにはありがたかった。

 とはいえ、政治向きの話が無意味だというわけでは無論ない。それはそれで、興味深い刺激的な話だ。

 マルタン・ナドは石工仲間との交流から共和主義に触れ、共和派の学校で学ぶ。時は1830年の革命後の七月王政下。彼は労働者仲間とともに、共和主義や社会運動に熱心にかかわる。そして48年の革命後は労働者仲間に推されて代議士になるが、ルイ・ナポレオンのクーデターによって亡命。ルイ・ナポレオン失脚後に帰国している。

 本書の後半は彼の仲間の労働者たちが多数紹介されている。十九世紀に、模範工とはいえただの労働者たちが、これほど活発に運動していたとは驚く。日本だって民権運動が、とも思うが、それはまだまだ士族や豪農の子弟のものだった。やはりフランスとは違う。1789年の大革命以来の、一般民衆の政治運動、社会運動については、きちんと見てみたい気がする。それだけで一生の研究テーマとすべき大きな問題だというのは承知しているけれど。

 労働者たちとならんで、ルイ・ブラン、フーリエ、ブランキ、プルードンなどの著名な思想家・革命家たちも、多くは面識のある同時代人として出てくる。当然ミシュレも。

 ミシュレについては引用する。

 「ミシュレはまた、王権にこびへつらう卑屈な著述家が国王たちをそこに引き上げた台座から、その国王を引き降ろすことをやってのけた国民の歴史をフランスに与えるだけでは満足しようとは考えず、市民同胞の広汎な大衆が知的に解放されるための事業に、もっと直接的に貢献しようと欲した。彼はそこで大衆の利用しうる『民衆』という本を公刊した。これは著者の考えが読者の考えにたやすく浸透する、学識豊かな手引きとなるものであった」(378ページ)

 ナドが書き連ねた労働者仲間たちはすばらしい人ばかりで、「知的に解放された大衆」のすばらしさというものをナドが信じていたことは、二十一世紀の日本人の目で読むとまぶしいばかりで、羨ましいような悲しいような気持ちになる。 

 

おまけ

 ★容易に想像がつくことだが、パリの建築労働者の生活が、おとなしいものだったわけはない。訳者が「足蹴り闘技」と呼ぶショソンという闘技や、拳闘=ボクシング、棒術などの道場が、パリには多数あって、若者たちが鍛えていた。もちろん、スポーツとしてではない。パリっ子労働者と出稼ぎ労働者、同じ出稼ぎでも出身地ごとに、剣呑な反感・侮蔑・対立があり、これらの格技は全く実戦のためのものだった。ナドもずいぶん強かったらしい。

 ★農村での「夜の集い」も興味深い。一軒の家に集まって夜なべ仕事をしながら、古老(彼の村の場合は老女)のお話を聞くのだ。幽霊の話や狼男の話を、青ひげの話等々。ナドの父によるナポレオン話も、こういう場で語られていた。。

 

 

 

9月26日(金)

なんか知らぬが、9月は激動の月になっている。家電や家具を買い替え、粗大ごみを二回も出した。

大きかったのは、ずっと悩まされてきた無意味に巨大な嫁入り道具の食器棚を払い、身の丈に合った小回りの利く茶箪笥に買い換えたことだ。おかげで部屋が広くなった。前の食器棚は、何年も経たぬうちに扉の蝶番が壊れ始め、最後の頃は重たいガラスの扉がいつ落下するかという、かなり危険な状態だった。あれは一体、何だったのだろう。仰々しいだけで使い勝手の悪い、意味不明の存在だった。

 

TVと一緒にレコーダーを買ったので、訳のわからぬビデオテープも山ほど処分した。この12年間で撮り貯めたエレカシの映像は、取捨選択してDVDに移すつもりで、その作業もなかなかたいへんだ。量が多いので、ライブ会場にカメラを持ち込んだようなものだけ残し、細々としたTV出演やインタビュー類は捨てるつもり。

 

そのほかにも、大量のゴミが出ている。妙な話で、この家には訳のわからぬ物体が数多くある。結婚したときに双方の実家から送りつけられた謎の物体、わたしが来たときに既にあったもの、それより前に夫が住み始めたときに既にあったもの、などなど。

そういう物をどんどん処分する。未使用の毛布二枚は、アフリカに送った。謎の食器類は、ブランド品だか高価なものだか知らないが、18年間まったく使わない物はこの先も使わないので、かまわず処分。そういうものより、自分たちの必要で買った百円屋さんのもののほうが、よっぽど使える。

 

CD類は売るつもり。書籍も捨てるにしのびないので、古本屋を呼んでまとめて引取ってもらおうと思う。何冊あるのか、3桁か4桁か見当もつかない。残すものと払うものとの選択が難しいだろうと思うと、果てしなく億劫になるが、いずれやらねばならない。

こうして暮らしの幅を小さくして、いずれ転居していくのだ。

 

 

 

 

 

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