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千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年8月 3日 4日 5日 13日 16日

 

8月1日(金)

 今日は陰暦七月朔日。陽暦のカレンダーと陰暦のと、一緒にめくった。こんなこと、お月様カレンダーを買うようになってから、初めてのような気がする。

 

 8月。

楊篤生の命日が近い。もうこの頃には大分おかしくなって、章行厳を泣かしたりしていたのかもしれない。

 勤務中にあまりに暇だったので、グーグルの地図でアバディーンを見た。Old Aberdeenという所に、University of Aberdeenがあった。

 

 いつか行ける? 一箇所だけ行けるとしたら、アバディーンと長沙とリヴァプールと、どれを選ぶ?

 

 「英国」と答えて、2箇所行くか。ついでにロンドンのリッチモンド公園も。

 

 

 

8月3日(日)

 明後日は楊篤生の命日。

 何かしたいが、なにができるだろう。

 「非其鬼而祭之、諂也、」と『論語』にあるから、お祀りすると叱られるだろう。でも、そっと悼み偲ぶことくらいはしたい。

 幸い彼も仏徒だから、お経なら受けてくださるのではないか。

 でも、何を読めばいい?

 彼の信仰のありかたが分からないので、ちょっと困る。学問としては華厳か法相だろうが、それらはいわゆる学問仏教で、供養というのとは距離があるような。

 わたしとしては阿弥陀経を読みたいところだが、浄土教は庶民的に過ぎるかもしれないし。

 つまるところ、万能の御心経がよいだろうか。このお経は昔から供養に使われているようだから。

 で、どこで行うか。星台先生のようにはっきりとした所縁の地があるとよいのだが、彼の場合はそれも分からない。楊昌済先生の日記が読めれば、何か分かるだろうに。

 となると、留学生会館か。『游学訳編』はここから出されたことになっているし、何度も足を運んだ場所であるのは確かだろう。

 

 留学生会館前でお経を読みますか? つまり……、池坊の校舎の前で。人通りが多く、お弁当を売る車がいて、人が列を成しているような場所で。

 ちょっと厳しいかな…… 

 

 

 

8月4日(月)

 8月4日。今日、楊篤生はアバディーンの寓を出て、夜汽車でリヴァプールへ向かう。彼の中で何が起こっていたのかなど、たとえ遺書を全部読むことができても、分かりはしないと思う。

 

 リヴァプールの海がどういうところなのか、わたしは知らない。港町で、華人街もあるし、アバディーンよりは開けたところだろう。漁民が彼を発見して引上げたというから、漁港もあるのか。

 一思いに飛び込めるような所なのだろうか。

季節は八月。星台先生のように十二月に遠浅の海に入っていくよりは、楽だっただろうか。

それでも、きちんと衣服を脱いで、華人と分かるようにということか唐傘も添えて、というありかたは、衝動という感じとは程遠い。星台先生同様、事前に遺書を郵送していることだし、覚悟の上の行動だ。

その覚悟をかためたのが、いつだったのか。遺書によれば、リヴァプールまで来てから決めたように読めるが、本当はアバディーンを出るときにはそのつもりだったのだろう。

そんな気がする。

 

 

 

8月5日(火)

楊篤生没後97年。

今日は留学生会館(現・池坊お茶の水学院)の前で御心経を読むつもりだった。恥ずかしながら未だに諳んじていないので、冊子も用意していた。歩道の端で、植え込みに隠れるようにして、読もうと思っていた。

 

ところが、11時を回ったあたりから空がおかしくなり始めた。西の空が墨の色。11時半を過ぎると、竜神さまがペカペカと。雷神様がドロドロと。

それでも行く気まんまんで散歩用の小リュックにお経を入れ、まだ降ってはいないが極めて不穏なので、傘は家から持ってきた折りたたみはやめて、置き傘にしている長傘を持って、出ようとしたら降り始めた。

 

建物の外に出たら、既にざんざん降り。なんとか池坊の前まで行ったが、とても冊子を取り出せるものではない。しかたなく、諳んじている普門品偈を早口で唱える。そうしている間にも、雨はどんどんひどくなる。

 

なんでこの日が、8月5日が、こんななんですかー! と言いながら、さいかち坂を下りていったが、既にズボンも靴もぐしょぐしょで、訳がわからなくなっている。あちこちのビルの軒先で、傘を持った人も雨宿りしている。

 

白山通りは歩道の高さまで水が来ていて、車が通ると波が歩道全部を覆う状態。旭屋書店があれば逃げ込めたのにと、その閉店を改めて残念に思う。

白山通りの歩道は水浸しで、マンホールから水がごぼごぼ出ていたりして、とても歩ける状態ではないので、次の交差点で猿楽町のほうへ折れる。十勝書房まで行ければと思ったが閉まっていた。もう、頭以外全部濡れているし、何より靴がかっぽかっぽいっている状態で、何がなんだか、笑うしかない。

 

十勝書房の先を折れて、燎原書店に逃げ込もうとしたが、店の前に巨大水溜りがあるし、この濡れ鼠であの狭い店内に入ると迷惑ではないかと思ったので、素通り。本当はお店のためというより、既に開き直って状況を楽しんでいたためかもしれない。

 

神保町の交差点も水浸し。靖国通りを渡れば書店街だが、渡れる状態ではない。アーケードは所在なげに佇む人でいっぱいだった。傘を持たぬ人はもちろん、傘のある人も、呆然と雨脚を見ている。

そこをぬけていくと、次の信号が青で、ここは水かさがなく渡れそうだった。で、とっさに渡り、そのまますずらん通りへぬけて、東京堂書店へ飛び込んだ。

 

しばらく遊んで出てくると、いくらかましな降りになっていたので、あとは普通に帰ってきた。空は普通に白い曇天。ほどなくして雨はあがった。

 

午後は一人で留守番だったので、御心経を読んだ。

 

もう終ったと思ったのに、2時を回るとまた降り出して、空も真っ黒。そして、けぶるような豪雨と雷鳴。

 

心静かに篤生を偲ぶはずの日が、なんだか訳のわからぬことになってしまった。

穏やかならぬ人だから、こんな命日もまた、彼らしいということか。

 

 

…………この豪雨で作業員の方が流されたという傷ましい事故。遺体が発見されたのが、神田川の市兵衛河岸って、わたしが毎日歩いているところじゃないの。

……明日からしばらく、通りの反対側を歩こう。川辺を歩けばどうしても川面に目がいくし、わたしは何も見つけたくないから。

 

 

 

8月13日(水)

 ついに行けた。大田区立大ふるさとの浜辺公園

 

 星台先生の見つかった大森町字浜端というのがどこなのか、いろいろ調べた結果、どうやら今の大田区大森東あたりらしいということが分かった。と同時に、ちょうどそのあたりに大田区が、人工砂浜の公園を造った(07年4月開園)ということも分かり、その公園を勝手に「現場」に決めてしまった。

 決めた以上は行ってみたいが、如何せん大森は遠い。直線距離なら20キロもないのだろうけれど、東京は南北の交通が乏しいため、どう考えても1時間半くらいはかかる。また、京急線という電車にも全く馴染みがないので、心理的な距離も遠い。

 おまけに、「現場」に行くとなると慰霊的な要素が出てくるから、異族の鬼神を祀ることに抵抗の強い夫に知れたら、絶対とめられるので、内緒で出かけねばならない。

 内緒で往復3時間も家を空けるというのは、ちょっと難しい。

 ということで、気にかけつつも果たせずにいたのだが、昨日やっと絶好の機会が訪れた。 

 

 ということで、行ってきた。

 

 最寄りの京急大森町駅は小さな駅だった。駅前に案内板くらいあるだろうと思っていたのに、何もない。大田区のHPから打ち出した地図と勘とを頼りに、適当に歩き出す。

 道々、海苔屋さんが何軒もあり、なるほど大森は海苔の町だったのだと、改めて思う。海苔屋のほかに目につくのは、町工場。

 公園の入り口を入ると、漁船のような小さい舟がたくさん係留してあり、海のにおいがした。夫の故郷の漁村を思い出す。ああ、海なんだな。と思うと、気持ちが湿っぽくなってきた。

 そこを過ぎるとパッと視界が開けた。地図で見たとおりの弓形の浜辺は、あまりに小さく、ちょっと呆然とした。こんなちっぽけな海、夫が見たら笑うだろう。というより、本当にこれは海なのか。

 

 大田区は、著名な海苔の養殖地だった大森の海を再現したかったということで、その志はよいと思う。けれど、本物の海との間には埋め立て地が横たわっていて、こんな小さな海が精一杯だったのかと思うと、いじましいというか、かわいそうな気がする。

 それでも子どもたちは、「遊泳禁止」の看板もものともせず、水に入って遊んでいる。父親と来ている幼女もいるが、いちばん元気なのは五、六人の小学生の男女で、子どもだけだし慣れた様子だから、近所の子たちなのだろう。よく見ると、どの子も水着ではなく普通のランニングやTシャツと短パンで、その格好で頭まで水に潜ってはしゃいでいる。

 完全に野生化している。……羨ましい。

 

 小さな海を見ていて思った。大の男が身を委ねるには、あまりに小さな海。

ここには彼はいない。こんなところにはいない。

きっと故国に帰っている。墓所のある長沙か、故郷の新化か分からないけれど。あるいは、各地を遍歴して、民主化運動の闘士を支援しているかもしれない。

 そうだ。きっと彼は成仏していない。彼岸に行ってはいない。それは彼が怨みを残しているとか、徳が低いからとかではない。彼はきっと菩薩の道を選んだと思うからだ。

 自未得度先度他。全ての人を幸せにするまでは、自分はあえて仏にはならない。それが菩薩だ。「匈奴未滅、何以家為」と言った星台先生だもの、そうであって不思議はない。

 

 それでも念のため、普門品偈を一回、般若心経を三回読んだ。そして、砂浜には降りずに公園をあとにした。……水に触れるのが恐かったのだもの。ここにはいないだろうと思っても、これは人工の砂浜だと分かっていても、それでも恐かった。

 

 不思議な遠足だった。

 

 

 

8月16日(土)

 昨夜、NHKでレイテ戦についての番組をやっていた。

 夫の伯父はこの戦いで亡くなっている。24歳。学徒出陣でレイテに送られ、負傷して動けなくなり、置き去りにされたそうだ。誰も殺していないのじゃないかと思えることが、せめてもの救いだと、夫は言う。

 そんなわけで、辛いし恐いし、でもやはり大いに気になるし、どうしようかと言っている内に番組は始まってしまった。

 

 ひどい話だ。そもそも作戦の決め手となった情報が、誤っていた。その誤りに気づいてからも、変えることなく突っ込ませる。

 大本営って何を考えているのだろう。まともな人間の頭があるのだろうか。

 

 そして補給も何もなく、食糧その他現地調達って、そんなばかな。

 ほとんどが病死か餓死と聞いてはいたが、改めて体験者からつぶさに聞くと、たまらない話だ。

 「カエルでもヤドカリでも、生きているものは何でも食べた。食べない人は死んだ」と言う人もあれば、「生で食べるから、みんなアメーバ赤痢で、1日に20回も30回も下痢して動けなくなり、座ったまま死んだ」と話す人もいる。『野火』みたいに「猿」でも食えばよいのか?

 

 でなければ、現地の人からの略奪。当然、怨まれる。

 抗日ゲリラに米軍が武器を渡す。ゲリラにとっては解放戦争だ。敵の敵と手を結ぶのは不思議ではない。

疑心暗鬼の日本軍は、現地の人が全てスパイかゲリラに思えて、姿を見次第みな殺してしまう。

 

 なんなんだ、これは。何がしたくて、何をやっているんだ?

 

 あまりに辛いので、半分まで見たところでチャンネル変えて、ちょうど始まった「水曜どうでしょう」に逃げてしまった。わたしたちは根性なしです。ごめんなさい。

 

 さて、夫の伯父は、何か要件に欠けるとかで、靖国に祀られてもいないし、恩給も出ていないそうだ。意味が分からない。勝手に行って勝手に死んだとでもいうのか。

 

 誰が望んだ戦争なのか。誰のための戦争で、誰が得したのか。

 夫の伯父さんも、満洲で死んだわたしの伯父も、「お国のために死んだ」んじゃない。殺されたんだ。

彼らは殺されたんだ。戦死者も、戦病死者も、そして非戦闘員の戦災死者も。

そこを間違ってはいけないと思う。

 

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ひよどりがいた。この人たちは、夏の間は山へ避暑に行って、蝉を追っかけ回しているのではなかったのか。

もう秋なのか?

そういえば、今いる前線は秋雨前線だという。やはりもう秋なのか。

 

陰暦五月に降る五月雨(梅雨)が、陽暦五月に降るようになってきている(おかげで六月末の野音が好天に恵まれた。東京の雨の特異日だったのに)。

そして、立秋過ぎた今、もう秋霖だって。

旧暦に季節が合ってきている?

 

変な場所で台風が生まれているし。

亜熱帯みたいになっている。

 

 

 

 

 

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