日記表紙へ

 

千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年7月 2日 8日 24日 28日 30日

 

7月1日(月)

野音で「武蔵野」を聴いた。

 

  「武蔵野」宮本浩次

俺は空気だけで感じるのさ

東京はかつて木々と川の地平線

恋する人には輝くビルも

傷ついた男の背中に見えるよ

 

泣きながら歌う宮本の背後には旧長銀のビルがそびえていて、わたしは宮本が見たのと同じものを幻視しようとしていた。

 

武蔵野の川の向こう乾いた土

そう 幻 そんなこたねえか

 

わたしは花袋の『東京の三十年』が大好きだ。特に、独歩との交流のあれこれが。彼らは本当に仲がよくて、異性だったら絶対に結婚していたくらいだった。二人で日光の山寺に籠もって合宿したことを書いた「KとT」は、ほとんど新婚旅行か新婚家庭のありさまだ。けんかも何度もしたようだが、幾度けんかしても死ぬまで友だちでいられたほど、それは深いつながりだった。そして独歩の死後も、花袋はずっと彼を愛し続けた。

誰かが誰かを大好きなのを、傍から見ているのが大好きなわたしには、たまらない関係だ。

 

「丘の上の家」に引かれた国木田君の手紙など、署名は「哲夫」、そして「録弥様」って、気恥ずかしくなるほどの親さだ。

 

 その二人が初めて会ったときのことが、その「丘の上の家」にある。所用で渋谷に出かけた折に、その近くに国木田君が住んでいると聞いて、訪ねていく。「渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、」田圃の中を流れる野川の向こう、「地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。」水車の傍の土橋を渡って茶畑や大根畑に添って歩き、途中で道を訊くと、「牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家だ」と教えられる。なるほど、「牛の五、六頭ごろごろしている牛乳屋」があって、その先に独歩の家があった。花袋が名のると、独歩は「よく来てくれた。珍客だ。」と迎えてくれる。そして、ライスカレーをご馳走してくれた。それから花袋はしばしば独歩を訪れるようになる。ときには隣の牛乳屋に声をかけて、絞りたての牛乳を取り寄せて、それにコーヒーを入れて飲んだり。(引用は岩波文庫版によるので、仮名遣いの違和感は岩波のせいです)

 

 宮本の「武蔵野」からわたしが思い描くのは、この武蔵野だ。

 丘の上の独歩の家。牛のいる牛乳屋。低い丘と楢林と田畑と。地平線と水車と土橋と。

 

 武蔵野の坂の上歩いた二人

 そう 遠い幻 遠い幻

 

宮本もそうだろう。鴎外や斉藤緑雨を読む彼が、「武蔵野」なんて曲を書く彼が、花袋はともかく独歩を読んでいないはずがない。

 

 ああ、なんか、「坂の上歩いた二人」が独歩と花袋のような気がしてきた。牽強付会と笑わば笑え。そんな気がするのだもの。

 

★おまけ★

独歩の手紙の件でちょっと気になったので、職場に転がっていた『文章辞典』(白石大二編、帝国地方行政学会、1968年)とやらを見てみたら、漱石が弟子に注意した手紙が引用されていた。「(前略)人のところへ手紙をよこすのに名宛人の名前丈をかいて自分は姓丈かくなんてえのは失敬だよ」と。そして「是が昔しの礼義(ママ)であります」と、例を挙げて教示している。

それに則れば、尊敬なら「哲夫」「田山様」。同等なら「国木田哲夫」「田山録弥様」となる。そして「哲夫」「録弥様」というのは、「極懇意の場合又は目下へやるばあい」に相当する。独歩が花袋を「目下」に思っていたわけはないから、「極懇意の場合」なのだろう。

 

 

 

7月2日(水)

 昼の散歩道が固定化してしまい、つまらないので、江戸城を組み込んだ道を開拓した。車の交通量が多くて空気が悪いし、お濠を巡る高速のランナーたちが恐いけれど、緑と石垣と水という風景は捨てがたい。お濠には巨大鯉や巨大亀もいるし、今日は白鳥も二羽浮かんでいた。それはやはり、風光明媚と言わねばなるまい? たとえその石垣の上の緑の向こうにあるのが、警視庁第一機動隊だとしても。

 お濠端を歩いていたら、毎日新聞社の前で、なにやら日の丸を掲げた団体が集会をしていた。該新聞社が国辱ものの振る舞いをしたとかで、さかんにシュプレヒコールをあげていた。

 暑いのに、ご苦労なことで。

 

あんまり関係ないけど、こんな歌もある。

 

「ゴクロウサン」 宮本浩次

 おかげさまだよ あんたのおかげで

 心は晴れ晴れ 楽しい暮らしさ

 ふだんの暮らしにゃ関係ないが

 悪いヤツラは裏でニヤニヤ

 それを知ってて 手もつけられず

 yeahゴクロウサン

 

 あやつり人形は 怒りを知らない

 何が起きても 怒りを知らない

 ふだんの暮らしにゃ関係ないが

 悪いヤツラは裏でニヤニヤ

 それを知ってて 手もつけられず

 yeahゴクロウサン

 (後略)

 

 20年前に発表されたこんな歌を、日比谷の野音で聴くのもよいものだ。

 客席の右手にそびえる官庁のビルに、ずっと灯りがともっていた。休日出勤でこんなに遅くまで。たいへんだなと思ったけれど、あれはひょっとして厚生労働省・社会保険庁が入っているビルではないか。だとしたら、なるほど急ぎの仕事が山ほどあるだろう。身から出たさびとはいえ、公務員とて労働者なのだから時間外手当をもらってよいが、終電までには帰ろうね。

 

 

 

7月8日(火)

 昨日、小石川橋のたもとでむくげが咲いた。本当は、わたしが千歳村から一歩も出なかった週末の間に開花したのかもしれないが、わたしが開花を認識したのが昨日なのだから、このむくげは昨日咲いたのだ。

 などという西洋式主観的観念論もどきの浅薄なものが、唯識であるわけではない。そうですよね、ヴァスバンドゥさん。

 ならば、なにがどう違うのか、などと問われてもわたしには分からない。かじるどころか、なめてみるのが精一杯。それでもただただ茫然としていて。

 ヴァスバンドゥにしても、ナーガルジュナにしても、あるいはその後継者たち、解釈者たちにしても、頭がどうかしているとしか思えない。こちらの頭が悪いのは確かだが、それにしたって、インド人てやはりどこか変だ。緻密に細密に、これでもかというくらい細かく細かく分けて、分析したり場合分けしたり。遊戯じゃないかと疑いたくなるほど細かいのに、一方では白髪三千丈がちゃんちゃらおかしいほど、ぶっとんだ巨大なものが平気で出てくる。日本では豆知識的に語られる兆以上の大きな数の単位は、インドの古典哲学書には当たり前に頻出する。どうなってるのだか。

 インド人は頭がおかしいのではないか。そう思って、彼らの頭の構造の一端でも見えないかと、説話集(12世紀の)だの実利論(こちらでいうと漢代くらい)だのをながめてみている。通勤電車で雑駁に読んでいるだけだけれど、それでもなにかしら見えてくる気がする。説話集のぶっ飛び、実利論の細密さ。でも、ぶっ飛び説話もなかなかに複雑で、やっぱりこの人たち、ただ者ではない。

 そんなこと維摩経ひとつ読んでも分かるだろうって? そうなのだけれど、仏典ではない、いわゆる外道のものを読んでみて、これは仏教だけの話ではないということが確認できた気がする。釈尊の責任ではないわ。

 

★☆★☆★☆★☆★☆★

 

 東京中の電気を消して夜空を見上げてえな(友達がいるのさ/宮本浩次)

 

 野音以来、夫婦そろって体調不良。おなかが悪い。3時間のスクワットと腕降りで、体のバランスを失したらしい。

 年寄りの冷や水という、悲しいことばが思い浮かぶ。

 昔は今と違って……ということを語りたがるようになると、年をとったといわれるのかな。昔というのが19世紀だの春秋時代だのを指しているうちは冗談ですむが、30年前くらいを指すようになると、これはもう。

 

 昨夜、東京タワーの明かりが消えたと、ニュースで言っていた。なに言ってるの?

 東京タワーの明かりって、そんなに年がら年中点いているものだったか?

 クリスマスとかお正月など、特別なお祭のときに灯して、わあって言うものではなかったか? 晴れもけもなく、気狂いじみて飾り立てるようになったのは、たぶんバブルの終わりごろからのことだと思う。

それをちょっとばかり、ほんの二時間だけ消してみて騒ぎ立てるのは、それ自体があまりに作り物めいた「イベント」で、どうかしているのではないかと思う。

 ライトアップはやめようよ。光害ってことばを知ってるかい? 別にわたしが元天文少女だからというだけではなく、草木や小動物がどれだけ迷惑しているか。

 年に何度か照らして、わあって言うほうが楽しくないかい?

 たまーのことだったら、樹木だって、「なんだ、まぶしいなあ、安眠妨害だよ」と言いつつも許してくれるのではないかしら。

 

 宮本が「電気を消して」と歌うのは、彼が明治文化に憧れているからで、彼の天文関係の知識や関心は、悲しいほど皆無に近いのだけれどね。

 

   東京中の電気を消して夜空を見上げてえな なんてな

   歩くのはいいぜ! 俺はまた出かけよう

   乱立する文明のはざまを一笑、一蹴、偏執、哀愁

   おい出かけよう 明日も あさっても

   また出かけよう

 

 

 

7月24日(木)

今朝、飯田橋駅近くの神田川べりの、「家」が建ち並んでいるところに、灰色の小さな仔猫がいた。置物のようにきちんとお座りして、驚いたように目をみはっている。

 わたしも驚いて、猫と眼を合わせたまま、時速6キロで通り過ぎた。

 そこは高速道路の下なので雨の憂えがなく、駅前には公衆トイレもあるので水も得やすいから、好立地なのだろう。よく洗濯物が木に干してあるし、臭気も全くなく、みなさん清潔に暮らしておられるようだ。

仔猫は、その中の誰かの家族なのだろうか。

少し先の「家」には、周りに鉢植えが並べてある。小石川橋のたもとの「家」は、明り取りの窓まである「大邸宅」だが、ひところそこでよく猫の声を聞いた。

ちょっととぶが、不忍池の端には、紐をつけた仔猫を大事そうに抱いている人も見られた。

「家」なのだから、花も家族も要るよね。

 

◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*◇*

 

 ここ十日ばかり、激動の日々だった。千歳村脱出計画が一気に具体化するかという話になり、それもわずか一ヵ月で話を決めろとのこと。慌ててあちこち探してみると、掘り出し物的にきらきらと輝く物件も見つかったりして、大いに心騒がせたが。

 結局、時ではないということになり、今回は見送ることになった。

 でもその間、千歳村を出て行く自分の姿を具体的に思い浮かべる日々となり、種々の感慨と覚悟とを得ることができた。

 

 ちょっとの間のつもりで住み始めて、まる18年。

結婚が決まって、自分が住むのがあの千歳村だと知ったときは、心底驚いた。あの千歳村。石川三四郎が田園生活を夢見て居を構え、望月百合子さんらと戦いの日々(?)を送った場所。

 書物の中の存在だったのが、にわかに現実のものとなって現れたような気がした。思えばおかしな話だ。わたしがどう思おうと思うまいと、その人たちもその土地も実在したことは確かな事実なのだから。子どものころから本ばかり読んで、現実感が薄い己の歪さを、思い知らされたというだけのことだ。

 

 石川の家は現・世田谷区八幡山で、八幡様の地所だった……というわずかな知識を頼りに、探しに行ってみたこともある。けれど、八幡様がどうしても見つからず、通りすがりのお婆さんに尋ねても、きょとんとされるばかりだった。

 それももう昔のこと。

 

 千歳村といえば、蘆花徳冨健次郎。彼もこの千歳村で、愛子夫人とともに「いたわりと諍いの日々」を送った。

 

 そしてわたしたちも、畑こそないけれど、ああ、戦いの日々だった。

 最近はさすがに落ち着いてきたけれど、まだまだだ。

 

 千歳村を出れば、穏やかな日々を手にできるのだろうか。

 

 

 

7月28日(月)

金曜の晩、包丁で親指をざっくり切った。

してはいけないことをしていた。これをやると危ないと思いながら、そのしてはいけないことをして、そのとおり、切った。

「やった!」と、わたしとしては叫んだつもりだったが、悲鳴でもなんでもない、いつもの野太い声だったので、隣室にいた夫は、事故には違いないが大したことはないだろうと思ったそうだ。それでもとんできてくれて、事態を見て驚き、助けてくれた。傷は大きくはないが、刃の当った角度が悪かったために深く、出血が多い。夫はワセリンをたっぷりつけて脱脂綿を当ててくれた。

作りかけのごった煮を夫が完成させてくれる間、わたしは何度も綿を取り替えた。痛みはさほどないが、出血の多さに参っていた。もともと血が足りない体質なので、貧血を起しそうで、頭がくらくらしていた。

夫はああだこうだと戸惑いながらも、ごはんの支度をやり遂げてくれた。この人は高校を出てから結婚するまで自炊していたので、一通りのことはできるのだ。ただ、結婚してからはほとんどやっていないので、勝手が分からなくて困ったそうだ。

 

血がなかなかとまらなかったので、この夜は後片付けまでしてもらった。

様子が落ち着くのを待って床に就いたが、寝ている間に傷が開かないかと心配だった。

 

朝起きてみると、血は止まっていた。よかったねと言いながら救急絆創膏をとりかえて、そのごみを捨てるときに、患部を家具にぶつけた。

また出血。

夫の嘆きはひととおりでなかった。どこまでだめな奴なのかと。生き物として壊れているのではないかと。

それはわたしも同感だ。はじめに怪我したのは、してはいけないと思いながらやっているのだから、人間としての失敗だが、今度は生き物としてどうかしていると思わざるを得ない。頭が細切れに分裂していて、そのそれぞれの間に連絡がなく、次に移る際に空白がある。そうとしか思えない。

 

今はぶつけたくらいでは出血しないけれど、ちょっと触っても激痛が走る。しばらくは気をつけねばならない。

さいわい右手だから、生活上さして支障はないけれど、意識にのぼらない分、ぶつける危険は大きい。

 

それにしても、こういうとき、全く自然に左でお箸を持っているのね。「箸だけは右」と、物心つく前から厳しく仕込まれたはずなのに。

 

*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*

 

昼、東京堂でツボの本を購入すると、三角くじを引かされた。ポケットティッシュが積んであるので、これをくれるのだなと思ったら、「おめでとうございます、4等です」と。そして、「こちらのボールペンか、冷たいお飲み物か、どちらかをどうぞ」と、ペンの束と氷付けの缶ジュースとを示された。考えるのが面倒くさかったし、ちょうど朱を買わねばと思っていたので、二色ボールペンを選んだ。

いま見たら、軸に「現代用語の基礎知識」と書いてある。要するに、最もつまらぬ物、お店の側から見て最も元手のかからない物を選んだのか?

そのせいかどうか、書いてみたら……書けない。黒は書けるが、肝腎の朱が書けない。

……ジュースにすればよかった。

 

 

 

7月30日(水

昨日のこと。

 昼の散歩で、朝から曇っていたので傘を持たずに出たら、神保町まで行ったところで照りだした。そこで、危険を感じて書店へ避難。東京堂で日本地図を探したが、思ったようなものがないので諦め、斜向かいの東方へ。

 

 そこで、清末関係でおいしそうな本を見つけた。今年出たばかりの本だ。著者は湘人らしく、ぱらぱらすると星台先生の名も、楊守仁の名もある。買いそうになったが、……誰が読むの? いつ読むの? 近いうちに引っ越すから本は買わないって決めたのは誰? 

 ということで、見なかったことにした。

 

 出ようとして、清代の進士題名碌を発見。図書館で何度も何度も、日を変えて、前から後ろから、目を皿のようにしてページを繰った本とは違う、新しく出版されたものだ。で、問題の1898年戊戌のところを見てみた。立ち読みで申し訳ないが、前から後ろから3回ばかり。

 けれども、やはりない。江蘇省かどこかの「唐毓麟」という人はいたが、湖南省長沙県の楊毓麟はどこにもいない。

 

 楊篤生進士説は、誰が言い出したのだろう。前にも書いたが、わたしは彼は挙人どまりだったと思っている。

 根拠1.楊昌済先生による伝記〜よき士人たる同族の青年としての篤生の伝記に、博士弟子員、抜貢、挙人、までは記されているが、進士とは書いていない。

 根拠2.『湘報』の速報に載っていない。変法運動推進の中心人物の一人だった彼を、洩らすわけがない。

 根拠3.題名録に見当たらない。

 

 刊年の古い本ほど挙人とし、新しい本が進士としている傾向があるが、前述の清末の研究書では挙人にしていた。

 

 やっぱり挙人でしょう。そう思います。

 

 

 

 

 

 

日記表紙へ