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千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年4月 2日 5日 8日 15日 17日 19日 20日 28日 29日

 

4月2日(水)

 朝、飯田橋の再開発地区の日本橋川で、写真を撮っている人がいた。通りすがりに背中越しに見て、何が撮りたいのか分かった。

 川の上に高速道路があるので、川は暗い。けれど川辺の桜並木には朝日が当たっている。川がゆったりと曲がっているので、その曲がっていく先の方で、桜が輝いている。自ら発光しているのではないかと思うほどの輝きだ。

 カメラを持っていたら、わたしだって撮りたい。撮って夫に見せたい。

 

 そして昼。

 「世を上げ 春の景色を語るとき 暗き自部屋の机上にて

暗くなるまで過ごし行きただ漫然と思いゆく春もある

いい季節だ どこへ行こう 不忍池など楽しかろ」

と、「夢のちまた」を歌いながら不忍池へ。

 

 人出はさすがに常よりは多いが、大混雑というわけでもない。それでも、狭いところに敷物を敷いてお弁当を食べている人たちもあるし、外国人観光客も多いし、カメラを持っている人もたくさんいて、いつもとは違う感じがした。

いつもは誰もいないボート池も、今日はたくさんのボートが出ていて、目つきの悪いキンクロハジロが、脚漕ぎのスワン型ボートのすぐ脇に、ひるむことなく浮かんでいる。

 水鳥の顔ぶれはいつものとおり。キンクロとホシハジロ、オナガガモ、ハシビロガモ、ユリカモメ。サギが一羽、水中の柵の上に片足で突っ立っていた。

 骨董市ののぼりが立っていたが、時間がないので無視。古道具屋との駆け引きは、宮本さんにまかせましょう。

 

 家の近所でドウダンがこぼれ始めた。

 駿河台の栃の木も若葉がだいぶ出てきた。

 どんどん進む。

 

 

4月5日(土)

 宋漁父先生生誕126年。

 陽暦1882年4月5日、清の光緒八年(壬午)二月十八日、湖南省桃源県に生まれた。

 

 職場に転がっていたビジネス雑誌みたいなものに、「世界中に孔子学院を作っている胡錦涛は『右手に儒教、左手に共産主義』でいくつもりで、彼の国のビジネスマンが今興味を持っているのは『論語とそろばん』の渋沢栄一だ……」というようなことが書いてあった。

 

 この記事が妥当なのかどうかは知らない。

 わたしが思ったのは、評価って何だろうということだ。

 「先んじている」とか、「後退した」「遅れている」などと言うけれど、何が「先」で何が「後」なのか、ずっと後から見て思うことで、最中にいては分からないだろうし、後年から見たって、その評価自体がもっと後から見るとまた違ってきて。

 何が言いたいのか分からなくなってきた。

 

 つまり、

 遯初君の評価は今どうなっているのだろう。彼の構想、袁世凱は神棚に上げて閉じ込め「虚君」とし、英国型の責任内閣制をとるというのは、彼の死によってつぶされた。そのため、時期尚早だったの、議会狂だの、若気の至りだの、いろいろ言われたようだけれど、彼の国がこの先どうなっていくのか、誰に分かる? 

 

 まあ、何でもいいや。今日は遯初君の日だ。久しぶりに日記をぱらぱらして遊びましょう。切れ者の政治家の印象が強いけれど、日記を見ればかわいいところもたくさんある青年だ。

 宋公明(水滸伝の宋江の字)を名乗っていたこともあるというし、日清戦争のときは刺激されて武術の稽古に励んだそうだし、男の子だなあ(同時期、十歳年長の楊篤生は「江防海防策」なる論文を書いて校経書院の山長に激賞されている。若年時の十年は大きい)。

 

 

 由井正臣氏の訃報。そんなに読んでいるわけではないけれど。

 

 

4月8日(火)

 「今日は朝から春の嵐が窓の外踊ってます」(牧野元「月と幻」)

 台風並みの暴風雨で、こういうのを屋内から見るのは好き。歩くとなるとえらいことだが、それもまた一興。靴やズボンは言うに及ばず、上体まで濡れておもしろい。

 けれど、おもしろがっていたら突風が来て、傘が半分おちょこになった。路傍駐車の蔭に入って閉じ、開いてみると、骨が一本曲がっているだけで使用には耐えそうだ。

 骨を直しながら道に出ると、完全に壊れたビニール傘を持った小学生とすれ違った。

 

 「今夜遅くに西の空から晴れ間も見えるそうです 小さな雲の切れ間からほら のぞきこんでおくれよ 暗い夜の隙間を割って 壊れかけた月が昇っていく」(同)と言いたいところだが、残念ながら今日は月齢2.0。壊れかけではなく、これから肥っていくところだし、細い三日月は20時52分に没してしまいます。

 今日は陰暦三月三日の上巳の節句。陽暦だと灌仏会だけれど、御稚児行列などの行事は一昨日の日曜に済ませたお寺さんが多いようだ。それでよかった。この天気じゃあんまりだ。

 本来は灌仏会も陰暦でしたほうがぴったりくるのかな。といっても、釈尊の本当の誕生日なんて、誰も知らないのだけれど。

 

 以下、小さな話を。

 ★昨日、近所のスーパーマーケットの練製品売り場の前に白い鬚の老人がいたが、着ていたのはパジャマだった。サッカー地のようなピロピロの、白っぽい地に細い線が入った、明らかにパジャマだった。都会人の常で、何事もなかったかのようにすれ違ったけれど。

 じっさま、お風邪を召されないでね。

 

 ★隣に完成した都営住宅の、廊下の灯りが一つ、一昨日からお化けになっている(蛍光灯が古くなって点滅するのを、うちではお化けと呼んでいる)。と思ったら、昨日お化けが一つ増えた。入居が始まってまだ何カ月にもならないのに。新品じゃなかったのだろうか。とんだ手抜きだ。都はなめられている。

 何でもいいけど、うちのベランダのカーテンの隙間から、ちかちかの点滅が見えるのは、ちょっと鬱陶しい。

 

 ★夫が風邪ひいた。土曜に行った行きつけの喫茶店の店長が、すごい声をしていたそうだ。律儀にそれをもらってきた。喉が真っ赤に腫れている。この人の常で、熱はなかなか出ないのだが、その分、長引くだろう。発熱というのは病気と闘っている表れだそうだから。

 薬は飲まずにとにかく寝て、汗かいて着替えて。また汗かいて着替えて。いつもそれだけで治す。当然ながら、洗濯物がえらいことになる。天気悪いのに、と思うけれど、本人の苦しそうなのを見ていると、そんなこと言っていられない。

 

 ★よく言われることだけれど、家電というのは壊れ出すと幾つも続けて壊れる。ここ一カ月で、8年目の炊飯器と18年目のトースターとが新品と入れ替わった。蛍光灯も一本替えたし、家電とは言えないかも知れないけどマウスもいかれた。これで終わりかと思ったら15年目の布団乾燥機もだめになった。買い換えてみて、いずれも技術の進歩に驚かされた(除・蛍光灯)。

 あと不穏な気配を見せているのはTVなのだが、これはもう少しがんばってほしい。12年目に突入していて、かわいそうなのは分かるけれど、いま買い換えなんて何を買ったらいいのか分からない。

 今、ブラウン管のなんて買えるのだろうか。夫は頭が悪いのか、液晶の画面が苦手なのだ。PCを買い換えたときポケモン症候群みたいな症状が出たので、古いののモニターにつけかえたくらいで。

 TVはPCみたいに間近で見ないから大丈夫なのかとか、プラズマとどちらが害がないのかとか、研究しないといけない。プラズマって高そうだし。

 いよいよとなったら、本人にお店へ行ってもらわないとならないだろう。

 それはともかく。TVが薄くなったら、時計とカレンダーはどこに置けばよいのだろう?

 

 

4月15日(火)

暖かいを通り越して暑い日。

市ヶ谷のお濠の桜は葉が茂っているが、水面には相変わらずキンクロの群れ。今月いっぱいくらいはいてくれるだろうか。

キンクロばかりで、オナガやハシビロの姿が見えないのが気にかかる。明日、不忍池に行ってみようか。

水道橋にいたユリカモメは、頭が黒くなり始めていた。もう衣替えか。

 

紙ばさみを整理していたら、メモが出てきた。昌済先生の日記の一部だ。

 

民国四年三月二十七日。

アバディーンにいたとき、英国学生が討論会を開き、意志の自由の有無についての問題を討論したことがあった。

自由に反対する者が甚だ多かったが、それは彼らの多くがキリスト教徒だからと、英人の友人が私に教えてくれた。

このとき、篤生もまたそこにいた。篤生はたいへん仏教を信仰し、キリスト教を信じていなかった。そして、意志の自由を強力に主張した。

英人の友がこれを難じて言った。「君は誰が造ったのか」

篤生は答えて言った。「私は私が造ったのだ」

英友は目をみはり、答えることばを失った。

 

「吾為吾造」と言い放つ篤生、かっこいい!

英語ができないと嘆きながらも、こんなややこしい哲学談義をちゃんとやっているではないか。

うれしいのはやはり「篤生頗信仏教」というところ。学問仏教だけでなく、信心もしていたということだろう。

「吾為吾造」というのは、なるほど仏法か。善因善果、悪因悪果。自業自得。したこと、感じたこと、諸々の経験が阿頼耶識に貯蔵されて、いつか芽を出す?

初学者の浅薄な理解だけど。

 

何年も経ってからこんなことを思い出して書き留めている昌済先生。愛だなあ。

 

 

4月17日(木)

昼に不忍池へ。重そうな八重桜と、咲きそろったばかりのハナミズキと。まだがんばっているソメイヨシノもあった。

池にいたのはハシビロと、目つきの悪いキンクロと、頭の黒くなり始めた(夏羽!)ユリカモメ。鵜もいた。オナガガモが一羽も見えない。もう帰ってしまったのだろうか。

この人たちはどうやって帰る日を決めるのだろう。みなで相談して、「明日あたりどう?」と決めるのか。それともある朝突然、一羽がまなじりを決して飛び立ち、皆も、「よし!」と続くのか。

 

 

PCの整理をしていて、こんな文章を発掘した。憶えていないけれど、蔡元培年譜長編を入手した直後に書いたものか。日記の草稿か何かのつもりだったのだろうか。

というわけで、一度のせたかもしれないが、おもしろいので、いくらか手を加えて以下に掲げる。

 

1911年8月19日にドイツ留学中の蔡元培が落手した、ロンドンの呉稚暉よりの17日付書簡。

楊篤生踏海の詳細と、その後の処理について。

8月10日、華僑公所で追悼会。参会者四、五百人。呉が故人の生平について報告。この夜、駐英留学生監督の銭文選も来る。

8月11日午前、葬儀。リヴァプール市の東北隅の公共墓地に葬る。参列者二百人。費用は十八ポンド。高碑を建て、題して「中国踏海烈士楊先生守仁墓」、この費用が四十ポンド。これらの費用は銭氏が出した。

ここに葬ったのは、行厳らと相談して皆で納得して決めたことで、理由は以下のとおり。

一、東の三島(日本)に朱舜水あり、西の三島(英国)に楊守仁あり。ともに永遠に芳名を遺す。

二、遺骨をかえすと、陳天華先生のときの騒ぎや(岳麓山事件)、秋瑾女士の墓が暴かれたような、おもしろくないことも起こりうる。

三、遺骨がなければ、老母を騙しとおすこともできるかもしれない。いたずらに悲しませることはない(篤生は老母には死を秘すようにと遺言した)。

四、遠すぎる。

 

 

 留学生監督が費用を出しているのがおもしろい。表向きはあくまで前欧州留学生監督秘書の楊守仁だったということか。ということは、留学費用も公費だった可能性がある。

 

楊昌済は後年の日記に、「篤生をリヴァプールで葬ることに私も賛成した」と記している。そして、「性恂(コ鄰)もまた賛成した」として、その手紙を引いている。故国が光復した暁には、烈士の英霊は必ず怒潮となって東返すると。

昌済が賛成した理由は記されていないが、コ鄰の理由は呉たちが述べるところとひと味違う。コ鄰としては、やはり帰ってきてほしかったのだろう。

それにしても朱舜水と同列にするとはすごいが、おそらくそれが彼らの気持ちなのだ。篤生の死は陳星台や姚剣生(洪業)とは違い個人的なもののはずだが、彼らはそうは受け取らず、自身に近い問題として感じ取ったのだろう。だからこそ篤生は烈士と呼ばれ、民国成立後には他の烈士たちとともに顕彰されているのだ。(その後も少なくとも1982年の時点では、現地の華僑たちが墓所を管理し祀りを続けていた。今も続いているのだろうか)

 

なお、蔡元培は呉稚暉から手紙を受け取った翌日の8月20日、伝記「楊篤生先生踏海記」を書いている。このすばやさは、篤生の死が蔡にとっても大きな衝撃であったことを示しているといえよう(ここには呉から送られたらしい篤生の遺書も引用してあるが、つらすぎるので今は措いておく)。

 

曹亜伯は『武昌革命真史』に、「葬儀にはずいぶん遠方からも集まったが、章士サ呉弱男夫妻だけは来なかった」と書いている。しかし呉の書簡によれば、「行厳と相談した」となっている。ということは、章士サは葬儀に参列したのだ。昌済もいるのに、わざわざアバディーンの章と相談するわけがない。章もリヴァプールに来ていたと考えるのが自然だろう。ただ、呉弱男は本当に来なかったのかもしれない。幼児を二人も抱えているし、後述の理由から彼女が篤生に反感をもっていても不思議ではないから。

民国十六年(1927年)に出された『武昌革命真史』と、事件直後の呉の書簡と、どちらが信頼できるかは言うまでもない。27年なら章士サは生臭い政治のまっただ中にあり、批判も相当に多かったから、色々な意図が交じる可能性もある。一方、呉稚暉が蔡元培宛の私信で、事実を曲げてまで章士サをかばう理由はどこにもない。曹亜伯は当時英国留学中で葬儀にも参列していたので、つい鵜呑みにしていたが、いけないようだ。

 

もっとも、踏海直前に楊篤生が章士サと仲違いしていたのは事実らしい。楊は章に対し些細なことで激昂して、常軌を逸した態度に出たため、呉弱男は怯えて逃げ出し、平生人前で泣くことなどない章も、このときばかりはあまりに情けなくて涙を禁じ得なかったという。「些細なこと」だったかどうかは篤生の言い分も聞かなければ判断できないが、篤生が騒ぎ章が涙したということだけは、楊昌済が証人に立てられているから事実なのだろう。

齟齬が生じた原因は分からない。金銭問題という説もある。篤生は遺書で章を謗っており、何かあったのは間違いない。それが何で、どの程度のものだったのか。

篤生は元もと円満な性格とは言い難いとはいえ、常軌を逸した行為というのは、やはり病気のせいであったと考えるべきだろう。彼の頭痛は渡英以前から始まっていて、上海時代に既に健康体とはいえなくなっていた。彼の健康状態については昌済のほかに于右任も記しており、渡英の際に兄のコ鄰に薬を持たされたこともわかっている。あるいは留日時代の爆弾暴発事故で隻眼を痛めている(失明ともいう)こととも関係があるかもしれない。

頭痛と不眠とが耐え難いほどになっていて苛々していたところに、「些細なこと」かどうか、ともかく何か気に障ることかあって、ヒステリーでも起こしたのだろう。たとえ文弱の身でも大人の男の人が本気で怒れば怖いから、気の強い弱男であっても怯えるのは無理はない。

もちろん篤生の苦悩は頭痛だけではない。

 つらかっただろうと思う。科学が好きで、先進の知識を存分に吸収するつもりで渡英したのに、入口の英語で難儀し、博覧会へ行けば彼我の科学力の差を見せつけられる。昌済は伝記に篤生のもらした嘆きを書きとめている。「少年の精力を国学の一隅に徒費したことが悔やまれる。中年になってから学ぶのは十倍の苦労を要する」と。

徒費という! 彼ほどの学を積んだ人が! 長沙での学生時代、俊秀として楊度らとともに賞賛され、江標に見出されて抜貢から挙人へという、そんな日々も今から思えば無価値なことなのか。(なのに一子・克念には新しい学問ばかりでなく経学もしっかり修めろと指示している。矛盾している? ろくに一緒に暮らしたこともない我が子に、せめて自分と同じ教養を積ませたいという心か?)

実際の話、昌済や章が東京で英語その他の勉強をしていたとき、篤生は爆弾かかえてとびまわったり、上海で論陣を張っていたりしていた。そんなことも悔やまれるのか? 

もともと粘り強い努力家だ。黄興も孫文に提出した人物リストでそう評している。于右任も、上海の新聞社で病身に鞭打つ彼の姿を記している。けれども彼の身体は、努力することを許さなくなっていた。どんなにつらかったか。

だからといって、英語ができないから死んだというわけではないだろうけれど。

 

ついでながら、楊昌済が書いた「踏海烈士楊君守仁事略」について少々。

白吉庵氏は『章士サ伝』で、民国初年の政争の中で楊篤生の遺書が章士サ攻撃に使われ、困った章が楊昌済に証言を頼み、その結果書かれたのがこの文章だとしている。「篤生が頭痛に耐えかねていた」と記すことで、彼がとてもまともな精神状態にはなく、そういう人の書いた文章は信ずるに足りないと暗に証しているのだと。

しかし、この政争や章からの昌済への依頼の手紙は1912年夏のことである。一方「踏海烈士楊君守仁事略」には、篤生踏海を「今年閏六月」と記している。陰暦の辛亥の歳は陽暦1912年2月までであるから、時期的に合わない。さらに、この文章が発表されたのは『甲寅雑誌』第一巻第四号、1914年11月である。『甲寅』以前にも一度発表し、そのときに加筆や操作がなされた……という可能性は皆無ではないが、やはり白氏の説には少々無理があるように思える。

 

 

わたしは章行厳先生を誤解していた。反省している。

魯迅を妄信していた子どもの頃、章士サというのはなんという悪い奴だろうかと思っていた。その後『武昌革命真史』を読んで、お葬式に来ないとはやっぱりいやな奴だと。さらに宋教仁の日記で、劉道一の伝記を書いてほしいという揆一の頼みをけんもほろろに断るさまを見て、一層その感を強くしていた。

けれども、だんだんに分かってきた。本当はそんなものではない。

魯迅に目の敵にされたことについては、よく知らぬがどうも彼が損な役回りを演じさせられたところがありそうだ。

道一の件は単なる薄情ではなく、章なりの決意があってのことであることも得心がいった。

となれば葬儀の件も、よほどの事情があってのことだろうと、そこまでは思うようになっていた。

でもなによ、これ。根本から違うではないか。

章士サは葬儀に参列した。そうとしか考えられない。

かくて全部ひっくり返された。誤解していました。ごめんなさい。

 

魯迅は章士サを皮肉っぽく「孤桐先生」と呼ぶが、その号のいわれは泣かせるものだった。

子どもの頃、勉強部屋の外に二本の桐の木があり、彼はその木を見るのが好きだった。けれどもあるとき落雷があって、一本が失われてしまった。彼は残った一本を見て、「これが僕だ」と思ったと。遊びたい盛りの男の子が部屋に閉じ込められて、毎日毎日、来る日も来る日も、訳の分からぬ「子のたまわく」「詩にいう」ばかり。どんな思いだったのか。

きつきつ勉強したことのない怠け者のわたしには、解るなどとはおこがましくて言えないが。

 

 

4月19日(土)

 善光寺さんが、仏徒としてチベット問題は看過できないとおっしゃったのは、うれしい。

 善光寺さんは阿弥陀様だ。ダライ・ラマは生身の観世音だそうだから、阿弥陀様の脇士を務めていらっしゃるわけで、縁があるのかな。

 

 わたしはチベット仏教について、ほとんど何も知らないのだけれど。

 

 

4月20日(日)

 久しぶりに公園へ。はなみずきが盛り。

昨日は布団も干した。やはり乾燥機とは違う。お日様はありがたい。夫が桧に少し反応しているが、今年の花粉は終わったことにした。

 

 

 実経験が乏しい分、仮想恋愛に淫しがちなので、志士の皆さんの写真はなるべく見ないようにしていたのだけれど、見てしまうとやっぱりだめだ〜。胸が騒いでならない。いい歳して何だと思うが、どうしようもない。

 だから女はだめだと言われてしまうのだな。

 

 平家物語世界でも、清盛五男と重盛嫡男だけは「様」つきで呼んでしまう。重衡さま、維盛さまと。

 とある前世の秋の今、凛々しい武者姿を都大路でお見かけして、胸を焦がしたことがあるのですと、某氏ならもっともらしく言うかもしれない。

 そんなこともあるかもしれない。が、記憶がない以上、前世のことは別人格だ。そんなことを探るよりも、今の自分の中のどの部分が彼らに共振するのか、そちらの分析をしたほうがよいだろう。

 前世の因縁を怨むより、今、ここで、善業を積む方が生産的だよ、と。それがわたしの立場だ。

 とはいえ、よく分からん。重衡さまは南都炎上の責任者だ。思い出すのも恐ろしい惨状を招いたのは、彼の本意ではなかったにせよ、その責任は免れえない。何でそんな人を気にするのか、自分でも不思議だ。斬られる前に法然上人に教えを乞うているから? そんなものではないだろう。

 維盛さまのほうが分かりやすいか。美形に弱いから? それは否定しきれないけれど、それだけではないよ。やはり富士川の合戦が気になるのだろう。あれによってアホのレッテルが貼られているが、あの事件には陰謀のにおいがする。彼はあのとき、邪魔ばかり入って思うように動けなかったのだもの。小松家の人だというのが問題なのではなかろうか。清盛の嫡嫡とはいえ、小松家は傍流みたいになっている。例えば宗盛のような小人なら、どんな陰謀でもしかねない。そのためなら源氏の力を割り引きして考えることだってするかもしれない。

 勝手に戦線離脱して那智で入水という末路にも、感じるところがあるかも。

 

 不当に評価が低い(と思える)人が気になるのかな。

 

 

4月28日(月)

連休のあいまで少しは電車が空かないかと思ったが、全然かわらないようだった。甘かった。みんな働いている。

 

 市ヶ谷のお濠に鴨が一羽も見えない。帰ってしまったのか? 不忍池に確かめに行きたかったけれど、今日は秋葉原から淡路町方面に用事があったため行けなかった。昌平橋の下にたくさんいたユリカモメも一羽も見えず、鵜が潜望鏡のように首を出して泳いでいるだけだった。渡り鳥はみんな帰ってしまったのだろうか。居つかれても問題だが、いなくなるとやはり寂しい。

 

 昼、秋葉原で用事を済ませて淡路町へ。

淡路町・須田町の三角地帯は、老舗の食べ物屋さんが集まっていて、その筋の人たちには有名な所だが、わたしのような田舎者が入れるのは、お汁粉屋の竹むらと近江屋洋菓子店だけ(やぶそばなんか入って、おつゆをどっぷりつけて食べたら、怒られそうな気がする)。竹むらさんは、冬は粟ぜんざい、夏はあんみつで幸せになれる。粟ぜんざいと並ぶ名物の揚げまんじゅうは、残念ながらわたしには油っこくて食べられない。近江屋さんは学生のとき友だちに「おいしいパン屋さんがある」と連れていかれたのが最初。お昼時に行くと店内で近隣の勤め人たちがパンを食べている。パンがおいしいだけでなく、ドリンクバーがあるのがいいらしい。天井が高く、店員がみんな大正時代の女の子みたいで、なんとも不思議な空間だ。今日は一日ひとりで留守番なので、お三時用にアップルパイとレアチーズケーキを買った(もちろん一人で二つ食べたのだけど、瞬時になくなった〜)。

淡路町から錦町へ出て、章行厳が英語を習いに行っていた正則学園の前を通って神保町へ。吉本興業本社は、引越し中のようだった。そのはす向かいの燎原書店の前を、今日は時間がないからとぶつぶつ呟きながら通過。錦華公園の前を通り、男坂を一気に上り駿河台へ。

栃の木の花が満開だった。

 

 

4月29日(火)

 朝食前に公園へ。途中でラジオ体操帰りの人たちとすれ違う。

ます、夫に合わせてゆっくり一周。それから一人で普通の速度(時速六キロ)で一周。あとは夫が体を整えているのを待ちながら遊ぶ。いちょうの木とじゃれたり、回し蹴り体操だの、夫が地面に描いてくれた円に沿って小走りで回ったり(八卦掌の基礎だそうな)、柔軟やったり。

全部終わって帰ったのが八時半。気持ちよかった。今の時期は若葉がきれい。青モミジの下に入ると、うっとりしてしまう。

 

一人で歩いているときに思い出した。篤生も公園が好きだった。ロンドンは人口が多くて空気が悪いので、必ず毎日公園を一時間歩いていると、家族への手紙に書いている。

章行厳も晩年の著作の中で、ロンドンにいたとき篤生はリッチモンド公園が好きで、植物標本が多いと言っていたと書いている。

公園を歩くのが好き。緑が好き。で、仏徒で。

好きな人との共通点を数えて喜ぶなんて、中学生みたいかな。

 

公園好きだ。公園がないと生きていけない。

いま千歳村脱出を考えているが、次の住まいも公園の近くにしたいと思っている。