日記表紙へ

 

千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2008年1月 8日 10日 13日

 

1月4日(金)

 1906年1月4日、宋遯初君は酔って陳星台の『猛回頭』の曲を歌い、一時に百感が交集して、悲しみに沈んで涙にくれ、しばし声を失った。

 『猛回頭』の曲というのは、冒頭の「大地沈淪幾百秋……」だろう。

 

 ああ、わたしはやっぱり星台先生が好きだ。そして彼のために泣いてくれた遯初君が好きだ。

 今のわたしは近代史にかかわれる状況にはないのだけれど、どうしたって忘れられるものではない。

 

 今年の正月は見事なまでの寝正月。元日はささいなことで夫の勘気にふれ、初参りへの同行を許されず、郵便受けに賀状を取りにいっただけで、あとは寝床で過ごした。2日はもっと徹底して、ほとんど寝たまま。家から一歩も出ていない。3日はさすがに駅前まで買い物に出たが、往復10分、店内滞在時間10分くらいか。あとは家でころころ。

 ずっと天気がよく、サンルームのような温かな部屋でぬくぬくと穏やかに過ごした。隣に建った団地のために3時に日没だが、それまでは暖房いらずの幸せな部屋だ。

 

 この生活の結果、体重が減って体脂肪率が上がるというちょっと恐いことになった。さすがに危機感を覚えて、今日は隣の駅まで歩いて買い物に行ったが、それだって往復20分増えるだけで大した距離ではないし、どうしたって運動量が足りない。

 明日は遠出したい。6駅先まで2時間半、往復15キロくらい歩いてきたい。

 

 そして明後日はZEPPだ。今度こそ前列でも中堅でもなく、後衛でおとなしくしたいと思うけれど、できるだろうか。

 

 

1月8日(火)

夫婦そろって昨日から腕が痛い。いつものとおり、ライヴのあとの筋肉痛だ。

 今回は本当におとなしくしていようと思っていた。後ろのほう、それも中心を外して脇のほうに行こうと約束した。500番台というのはキャパを考えれば決して悪くはない番号だが、あえてゆっくり行き、ドリンクを受け取るのに混雑して暇取ったこともあって、入ったのは開演5分前だった。もちろん満員。後方の一段上がったところに場所を見つけた。これが思いのほかよい場所で、遠いは遠いが、斜めだから遮るものなくミヤジまでつながれる。

 開演時刻を12分過ぎて始まってからは、もうだめだ。会場全体が見渡せて、みんなのノり具合が観察できたが、それとこれとは別。わたしはわたしで身を任せるしかない。

 

 ミヤジは終始機嫌よく、終わったのは19時20分。2時間超! スタンディングなのに!

 細かいことは省くが、要するに、ライヴはやめられない。やめられないが、スタンディングはやはりきつい。次は渋公だからよいけれど、今後は本気で考えねば。

 もちろんホールでも立ちっぱなしだ。けれども、始まる直前まで座っていられるし、なにより場所が決まっている。周りの人に気遣いをしなくてすむ。これが実は大きいのだ。

 メンバーも早生まれの石くんを除いて41歳。同世代のファンはみな40を越えている。40代後半になるとスタンディングはきつく、チケットあるのに諦めた……という悲痛な声も聞いた。

 移り気な若いファンよりも、エレカシとともに老い、人生とともに歩んでいく覚悟を固めているコアな同世代ファンを大事にしてほしい。だから、ホールを増やしてほしいな。経費の面など問題はあるのだろうけれど、実際の話、ホールを切望する。

と、その旨をスタッフ宛に書き送った。

 

それはさておき、よいライヴだった。若い人増えた。特に若い男の子が。

「歴史」ではイントロでみんな沸いた。ということは、人気があるのか。かっこいいけれど変な曲。カラオケで歌ったら場が凍ったという話も聞く。そうだろう。鴎外の評伝を散文のまま歌って、それが見事に曲にのって、かっこいいロックになっているのだから、とんでもない。「男の生涯にとって、死に様こそが生き様だ」「残された時間の中でぼくら死に場所を見つけるんだ それがぼくらの未来だ」

鴎外には共感できないので、志士のみなさんの死に場所を思ってしまった。大森海岸、リヴァプールの海、上海駅(正確には鉄道病院だけど)。譚嗣同、劉道一、禹之謨たちは刑死している。寧仙霞と楊徳鄰も。

死に場所は大事か? 「子供の頃俺は、毎日精一杯生きて、いつの日か誰かの為に格好よく死にたいと、そればかり思って、涙流してゐた」と歌う(「なぜだか、俺は禱ってゐた。」)宮本らしい考え方だけれど、あまり簡単にそう言い切りたくはない。人の死はどんなものであっても、尊重すべき敬すべきものだと思う。

章行厳先生みたいに、92歳まで生きて、大騒ぎして周囲を巻き込んだ末に世を去るのも、それはそれでいいでしょう。

 

昨日、湯島の天神様へ初参り。不忍池でハシビロガモを見た。

 

 

1月10日(木)

 もう15年くらい前になるか、雪の日に高校の友人たちとしながわ水族館に行った。最寄駅の「大森海岸」の4字にわたしは激しく反応したが、誰かに話せるわけもなく、ひとりでこっそりと興奮していた。駅からの道々、雪に足をとられながらもきょろきょろしたけれど、どこに海があるのかは分からなかった。当たり前だ。全部埋立地だもの。

 

 その後、図書館で調べて、星台先生が見つかった荏原郡大森町字浜端というのが、今の大田区大森東にあたることが分かった。駅でいうと大森海岸より2つばかり先になる。この辺もすっかり埋め立てられていて、海苔の養殖の発祥地とも言われ、海水浴場でもあった海は、とうに姿を消してしまったらしい。

 

 今日の新聞の東京面に、大森の海苔の養殖の記事が出ていた。大森東に最近人工の海浜ができたとかで、そこで元生産者たちが海苔の養殖を復活させたそうだ。多摩川河口に自生していたものの胞子を有明海で種にしてもらい、植えつけたとか。62年末に埋め立て等のために漁業権を放棄して以来、45年ぶりとのこと。品質は往時のものと一緒だそうだ。

 

 土地の人は昔の姿を懐かしむのだな。などという感慨は、実はどうでもいい。

 問題は大森の海だ。

 やはり大森の海は遠浅だった。海苔そだが並び、あるいは芥川の小説や黄尊三の日記にも見られるように小さな子どもも遊ぶ海水浴場となっている。多摩川の河口に近いから、川が運ぶ土砂が堆積してとか何とか、自然地理の先生なら説明してくれるだろう。

遠浅の海。だからそれは、よくいわれるような「投身自殺」ではありえない。投身のように一瞬の決心でできることではない。文字通り海を踏んで、自分の意志で進んでいかねばならない。今より寒かっただろう百年前の12月、しかも天気が悪くて陽射しがない日に、たった一人で、どんな思いで進んでいったのか。

海育ちの夫は「大丈夫、すぐに何も分からなくなるから。海に優しく抱きこまれるだけだから」と、まるで経験者のように言うが、本当のところはどうだったのか。

 

 想像するのが怖い。

 

 

1月13日(日)

 『東京朝日新聞』の1905年12月7日の記事が許されるべきものでないことは言うまでもない。

 けれども星台先生の死は、朝日への抗議自殺というよりも、同胞の奮起を促す諫死の意味合いが強いことは、その絶命書を冷静に読めば分かることだ。

 彼は早くから「死に場所」を探していた。例の「意見書」を自ら北京へ持って行こうなどという企ても、その表れでもある(遯初君の解釈だが、わたしも特に異を唱える気はない)。

 なぜ彼が「死に場所」を探していたのか。それはもう文学とか心理学などの領域に入ってしまい、わたしの手には負えない。

 悲しい人だと思うだけだ。

 

 でも、その彼に「死に場所」を、死のきっかけを与えたのは、『東京朝日新聞』だ。やっぱり朝日の罪だ。

 朝日新聞はここのところ自らの戦争責任についての検証を続けていて、それは評価できると思う。星台先生の件も、昨年やっとほんのちょこっとだが言及してくれたし、まあいいかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

日記表紙へ